『An unexpected excuse』

    〜乃梨子 過去編〜






真夏の炎天下。
日も高く一日で最も暑いと思われる時刻に、その全身黒尽くめの男は立っていた。
黒尽くめに加え、長袖のシャツを着ており、顔と手以外は外気に触れる事もない。
男は手を額に翳し、呆然と、まさに呆然と言うのに相応しい表情で何処ともない空間を眺めていた。
やがて、ゆっくりと手を、肩を落とす。

「不覚……。まさか、財布を落とすとは」

肩から下げた荷物を揺らし、しっかりと持ち直すと男はゆっくりと、
陽炎が立ち昇るアスファルトを踏みしめて歩き始める。
男――高町恭也は小さく鳴った腹を押さえながら、どこかバイトが出来る所はないかと駅前へと向けて歩いて行く。
昔、父と旅をしていた時にも、時折路銀が底をつくという事があったためか、それほど焦る様子も見せず、
近くの交番で財布の落し物がない事を確認すると、本気でバイトをする事を決める。
朝から何も食べていない所為か、流石に昼を周った現在では空腹で腹に違和感を覚える。
暑さと空腹により、いつもよりもややだらしなく歩いていた恭也の目にソレが止まる。
街でよく見掛けるナンパという奴である。
ただ、一人の少女を数人が囲み、嫌がっているのにしつこく絡む様子は恭也でなくとも気分が良いものではない。
恭也はそちらへと方向を変えると、今まさに少女の腕を掴もうとしていた男の腕を取り、そのまま放り投げる。
行き成り仲間が投げられたのを見ていきり立つ男たちに、恭也は疲れた顔を見せる。

「嫌がる女性を無理矢理というのは感心しないな。
 そこで寝ている奴を連れて、さっさとここから去れ」

恭也の言葉に従わず向かってくる男に溜め息を吐きつつ、恭也は二人を更に地面に這わせる。
ことここに至って、ようやく自分たちでは敵わないと悟った男たちは、背を向けると急ぎ立ち去る。
それを見送った後、恭也は少女に出来る限り優しく声を掛ける。

「大丈夫ですか」

「あ、はい。ありがとうございます」

「いえ、お気になさらずに。それではこれで」

少女に背を向けて歩き出しながら、今ので更に腹が空いたなとか考えていたため、
後ろから名前を聞かれているのにも気付かずに、その場を立ち去るのだった。
それから歩く事数分、恭也は向こうから歩いてきた少女とぶつかってしまう。

「あっ」

小さく声を上げて少女は転び、持っていた荷物をばら撒いてしまう。

「ああ、すいません。ちょっとぼーっとしてまして」

恭也は慌てて謝ると、少女がばら撒いた荷物を拾っていく。
買い物の帰りだったのか、幾つかの食材が地面へと転がっている。
それを拾いながら、恭也はもう一度謝る。

「いえ、気にしないでください。私も余所見をしてましたから」

そういう少女に拾い終えた物を渡すと恭也は立ち上がる。
もう一度謝ろうとして、しかし、恭也はそのまま地面に座り込む。
これには逆に少女の方が慌てて、恭也の傍に屈み込む。

「ひょっとして、どこかぶつけてしまいましたか」

「あ、いえ、ちょっとふらっとしただけですから」

「ですが」

「本当に大丈夫です」

言うものの、軽い眩暈を感じてすぐに立てずにいた。
恭也は気付いていなかったかも知れないが、今日は昼からこの夏最高を記録する程の猛暑で、
その炎天下を帽子も被らず、何も食べずに歩いていたのだ。
おまけに、ここ数日は野宿が続いており、満足に寝ていないのだ。
これでは眩暈を覚えるのも当然で、寧ろそれぐらいで済んでいるのは幸いである。
少女は恭也の顔を覗き込むと、恭也へと肩を貸す。

「何処か休める場所まで行きましょう」

「いえ、しかし……」

尚も断ろうとする恭也の腹が、突如盛大に鳴る。
恥ずかしさで紅くなる顔を少女はまじまじと見詰めた後、不意に噴き出す。

「ご、ごめんなさい。でも、つい」

「いえ。その朝から何も食べてなかったもので」

「それは仕方ないですよね。えっと歩けますか」

「いえ、本当にもう大丈夫ですから」

言って恭也は一人で立つと、少女に礼を言って別れる。
少女の方も恭也に背を向けて横断歩道を歩き出すが、そのすぐ目の前に右折してきた車があった。
思わず目を閉じた少女だったが、自分の身体が後ろへと強く引かれるのを感じ、
続けて荷物の落ちる音、自分が誰かを下敷きにした事を音と感触で知る。
目を開けてみれば、さっき別れたばかりの恭也が少女の下におり、少女は助けられたのだと知る。

「あ、ありがとうございます」

車は二人が無事だったと知ってか、それとも知らないからか、そのまま走り去ってしまう。

「大丈夫ですか」

「はい。何とお礼を言っていいのか」

「気にしないでください。さっき、ぶつかってしまいましたし、肩も貸してもらいましたから」

「でも、あれぐらいで……」

「いえ、本当に」

言って立とうとする恭也だったが、上に少女が乗っていて立つことが出来ない。
それに気付いた少女は慌てて恭也の上から降りると、再び散らばった荷物を集める。
恭也も同じように手伝い、全て集め終えると、恭也はその場にしゃがみ込む。
少女は一瞬、何処か怪我でもしたのかと心配そうに見詰めるが、再び少女の耳に恭也の腹の音が届く。

「お腹が空いているんでしたね」

「ええ。お恥ずかしいですが……」

「良かったら、家で何か食べますか。すぐそこですし……」

「いえ、そんなご迷惑を。
 それに、見ず知らずの男性を家に招くなんて何かあったらどうするんですか」

そう言って厳しい顔をする恭也に、少女は思わず笑みを零す。

「命を助けてもらったお礼ですよ。
 それに、本当に何か危害を加えようとする人なら、自分も危ないかもしれないのに助けたり、
 ましてや、家に誘われてそんな事は言いませんって」

「しかし……」

「本当に遠慮しないでください。助けてもらったお礼なんですから。
 それに、ここで見捨てて何処かでの垂れ死んでいた、なんて事になったら寝覚めが悪いですし」

「……そこまで仰られるのなら、お言葉に甘えさせていただきます」

「はい、どうぞ。えっと……」

「あ、自分は高町恭也と申します」

「私は二条乃梨子といいます」

そう言って自分も名乗ると、乃梨子は恭也へと手を差し出す。
その手を掴んで立ち上がると、恭也はもう一度礼を言う。
これが、高町恭也と二条乃梨子の出会いであった。



  ◇◇◇



家に帰った乃梨子は、今日は家にいた董子に客を連れてきた事を告げる。
最初、志摩子だと思っていた董子だったが、連れてきたのは違う人、それも男という事に驚いていた。

「いやはや、まさか乃梨子が男の子を連れてくるなんてね。
 にしても、面食いだったか」

董子の言葉に改めて恭也を見れば、確かにと納得するが、すぐに否定するような言葉を上げる。

「す、董子さん! 何を失礼な事を言ってるの!
 この方は私の命の恩人なの!」

怒りながら乃梨子は事の経緯を簡単に説明する。
その車に腹を立てつつも、恭也へとお礼を言う董子に逆に恭也は困ったような顔を見せる。

「いえ。自分こそ、乃梨子さんのお言葉に甘えてしまって……」

道中、苗字ではなく名前で呼ぶように言われた恭也は乃梨子を名前で呼ぶが、
それを聞いて董子はにやにやと笑う。
それを台所に立ちながら感じた乃梨子は、顔だけを覗かせて董子に釘を刺す。

「リリアンに行っている所為で、苗字だとすぐに反応できないのよ!」

再び顔を戻して作業に戻ると、台所から良い匂いが漂ってくる。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます。それでは、頂きます」

手を合せてから箸を取ると、恭也は今日始めての食事を開始する。
黙々と、しかしかなり素早く動く箸に思わず話し掛ける事も忘れて乃梨子と董子は恭也が食べ終えるのを待つ。
恭也が食べ終えてご馳走様とすると、お茶をそっと差し出す。

「ありがとうございます」

それを受け取って飲む恭也へ、乃梨子が不思議に思っていた事を尋ねる。

「所で、朝から何も食べていないってどうして?」

恭也は暫し考えた後、口を開く。

「学校が夏休みに入ったので、ちょっと旅に出たんです。
 ですが、財布を落としてしまいまして……」

「おやまあ、それは大変だね。じゃあ、泊まる所なんかは……」

「まだ決めてません。まあ、この時期ですから野宿でも充分ですし。
 現にここ数日はそうしてきました」

「野宿って……。家に電話するなり……って、財布がないんでしたね。
 何でしたら、家の電話で」

「いえ、それは遠慮させて頂きます。
 一応、修行という事で出てきましたので、路銀が尽きたぐらいでそれはできませんから」

真面目な顔で告げる恭也に、乃梨子と董子は好奇心を刺激されたのか、更に質問をぶつける。

「修行って、何の修行なんですか?」

「えっと、家は代々剣術をやってまして……」

「へぇ。それで若いのに修行の旅かい。
 いやいや、今時の若者にしては中々……」

「恐縮です」

「だったら、家に暫く泊まると良いよ。路銀を稼ぐにしろ、泊まる所はあった方が良いだろう」

董子の言葉に頷く乃梨子。
そんな二人を見て、恭也は慌ててそれを止める。

「そこまで甘えるわけにはいきませんよ。これ以上、迷惑は掛けられません」

「迷惑でも何でもないって。それに、乃梨子の恩人なんだから」

「ですが、女性二人の家に俺みたいな男というのは」

「嬉しい事を言ってくれるね。
 まあ、その辺は大丈夫だと思ったから言ったんだよ」

「ですが……」

「どうせ、路銀がなくて当分はこの町にいるんでしょう。
 だったら、遠慮しないの。まあ、たまに力仕事とかを手伝ってくれれば」

「……乃梨子さんは良いんですか」

「うーん、私は別に構いませんよ。さっきも言ったように、恭也さんは悪い人には見えないし」

「なら決まりだね」

乃梨子の言葉を聞くや、董子はすぐさまそう言いきる。
それを聞き、恭也もこれ以上の反論もなく、寧ろ助かるのは確かなのでその申し入れを受け入れる。
こうして、恭也の滞在が決まったのだった。



  ◇◇◇



恭也が乃梨子の家に世話になってから数日が経過したある日。
菫子が夕方から出掛けるという事で、
乃梨子はバイトを終えた恭也と一緒に夕飯の買出しついでに街を歩いていた。
その途中、乃梨子はよく見知った人物を見つけて駆け出す。
その後ろを歩きながら恭也が追っていく間に、乃梨子はその人物と挨拶をして何か話し始める。
恭也がそこへ着くと、乃梨子はその人物に恭也を紹介する。

「こちらがさっき話した、高町恭也さん。
 で、こちらが私の姉の志摩子さん」

乃梨子に紹介されて二人はお互いに頭を下げて挨拶をしようとして、お互いに顔を見て小さく声を上げる。

「あっ。あの時はありがとうございました」

「ん? ああ、あの時の」

顔見知りだったらしい会話をする二人に首を傾げる乃梨子へと、志摩子が説明をしてあげる。

「先日、変な男の人たちに声を掛けられた時に助けていただいたのよ」

「ああ、そうなんだ。駄目だよ、志摩子さんは綺麗なんだからもっと気をつけないと」

「嫌だわ、乃梨子ったら。私なんかよりも祥子さまやお姉さま方の方が綺麗なのに」

「いや、志摩子さんも充分にあの人たちと張り合えるから……」

志摩子の言葉に思わず小さな声で突っ込むが、
志摩子には聞こえていなかったらしくただ小さく首を傾げただけだった。
それを横で見ていた恭也は小さな苦笑を漏らしつつ、乃梨子の言いたい事を代わりに言ってあげる。

「志摩子さんは充分に魅力的な方ですよ。だから、一人で出歩く際はもう少し気をつけた方が良いですよ。
 乃梨子が心配しますから」

「まあ、恭也さんまでそんな事を言って」

そう言って本気で取り合わずに笑う志摩子に、恭也も笑い返す。
その後、乃梨子を話題とした話が二人の間でされるのを、乃梨子はただ黙ってみていた。
眉間に小さな皺を作り、片手で左胸の上辺りをそっと押さえながら。
二人が仲良くしてくれるのは嬉しいのだが、初対面にしては仲良すぎないか。
とか、何となくモヤモヤとしたものを抱えて考え込んでいた乃梨子は、
二人が心配そうにこちらを見ながら呼びかけている事に気付き、慌てて笑顔を作る。

「何、どうかしたの?」

「いや、何でもないんだが……。乃梨子こそ、何もないのか?
 何か難しい顔をしていたけれど……」

乃梨子の顔を覗き込みながら心配そうに見詰める恭也へと手を振って何でもないと言いつつ、
乃梨子はさっきの感情が、仲良さげな二人を見ていて面白くないと感じていたと理解する。
そんな自分の感情に首を傾げつつ、一緒に歩き出した志摩子と恭也の後ろへ続きながら、
ようやく乃梨子はそれが、志摩子を取られたみたいで恭也に焼きもちを焼いていたと思い付く。

(なんだ、そういう事だったのね)

それが分かって若干軽くなった足取りで恭也の横に並ぶ乃梨子を、
志摩子がそっと窺っていたが、それに気付くことなく乃梨子は二人の会話に参加するのだった。



方向が同じだったため、三人は一緒に歩いていた。
と、乃梨子の目がある店に止まる。

「アイスクリームか。ねえねえ、志摩子さん食べない?」

「そうね、行きましょうか」

乃梨子に手を掴まれて引っ張られながら、志摩子は恭也を見る。

「乃梨子と買ってきますけれど、何が良いですか?」

「んー、バニラでお願いします」

頷いて買いに行く二人の後ろ姿を見遣りつつ、恭也は木陰に移動する。
ここなら座る事も出来るし、丁度良いだろうと荷物を降ろすと汗を拭う。

乃梨子と志摩子はアイスをそれぞれ手に持つと、恭也が待っている所へと戻って行く。
と、恭也の傍に見知らぬ女性が居て、何やら話し掛けている。
恭也の方は少し困ったような顔を見せつつも、何事か返している。
そんな様子を見て、乃梨子は眉間に皺を寄せつつ、先程と同じようなものを胸の奥に感じる。
そんな乃梨子の様子に気付いた志摩子が、優しく微笑みながら、

「乃梨子は恭也さんの事が好きなのね」

「……えっ!? え、えぇぇぇっ。い、いや、そんなんじゃなくて……。
 も、勿論、だからと言って嫌いという訳でもなくて……」

かなり慌てふためく乃梨子を落ち着かせると、志摩子は乃梨子の心情を悟る。

「ごめんね、乃梨子。そんなに慌てるとは思っていなかったから。
 私と恭也さんが話している時の様子から、そうじゃないのかなって思っていたのだけれど。
 どうやら、自分でも気付いていなかったのね」

「だ、だって、そんな……。ほ、ほら、私なんかが相手にされるはずないし。
 そ、それに、もう彼女とかいるかもしれないし……」

志摩子の言葉に多少は落ち着きを取り戻しながらも、あたふたと喋る乃梨子に志摩子は再び笑みを浮かべる。

「あら、その言い方だと、乃梨子が恭也さんの事を想っていると言うのはやっぱり間違いないみたいね」

「あ、ああぁぁぁ」

乃梨子は真っ赤になって口をパクパクさせるだけで、そこからは意味のある言葉は出てこない。
そんな乃梨子に微笑を見せると志摩子は恭也の元へと近づく。
志摩子と乃梨子に気付き、明らかにほっとした顔を見せる恭也と、残念そうな顔で離れて行く女性。
志摩子は恭也へとアイスを渡しながら、今のは知り合いか尋ねていた。

「いえ。急に声を掛けられまして。
 きっと、こんな暑い日に全身を真っ黒で露出もない俺を見かねて声を掛けてくれたんでしょう。
 涼しい所に行こうと誘われまして」

言って苦笑を見せる恭也の言葉に、志摩子は見えないようにそっと溜め息を吐くと、
後ろからやって来た乃梨子を見て、苦労するわねという表情をする。
妹のために何かしてあげようと、志摩子は会話の流れに乗るように話し掛ける。

「多分、さっきの方は恭也さんを誘ったのはそういった意味ではないと思いますよ」

「そうなんですか?」

「ええ。先日、私が声を掛けられたのと同じ理由かと」

「まさか。俺なんかを相手にしても、何も面白くもないですよ。
 からかわないでください」

「あら、本当の事なのに。
 まあ、恭也さん程素敵な人でしたら、お付き合いされている女性の方はいらっしゃると思いますけれど」

「それこそ、まさかですよ。そんな酔狂な人、いませんよ」

そう言って寂しそうに笑う恭也に何か気付いた志摩子だったが、何も言わずに乃梨子の様子を窺う。
明らかにほっとした顔をみせる乃梨子の様子に微笑を浮かべると、
その事に気付いたのか、乃梨子は慌てたように顔を背ける。
そんな二人の様子をただ首を傾げて見ている恭也へ、志摩子は再び話し掛ける。

「大丈夫ですよ、恭也さん。人を好きになるのに時間も資格も関係ありませんから。
 ただ一緒に居たい、大切にしたいとお互いに思える相手が居ればそれで……。
 だから、恭也さんもそんな事を言わないでくださいね。
 きっと恭也さんを好きになってくれる人は必ず居ますから。
 そして、恭也さんが好きになる人も。その時は、その人にその想いを伝えてあげてください。
 口にしないと、想いは伝わりませんから」

真剣な顔で見つめてくる志摩子を見返す恭也の顔は、僅かにだが驚きが含まれていた。
それは乃梨子も同じようで、行き成りそんな事を言い出した志摩子をじっと見詰める。
二人から見詰められる形となった志摩子は、照れたように笑みを一つ浮かべる。

「私も偉そうな事を言える程、経験はないですけれどね。
 それよりも、早く食べないと溶けちゃいますよ、アイスクリーム」

言って自分のを舐める志摩子につられるように、恭也と乃梨子も少し溶け出していたソレを口にする。
それぞれ胸の中で何かを考えながら。



  ◇◇◇



その日の夜。
夕飯も風呂も終えて後は寝るだけという頃、恭也と乃梨子は居間でお茶を飲んでいた。

「董子さん遅いですね」

「そうですね。でも、遅くなると仰ってましたから」

乃梨子の呟きにそう答えると、再び沈黙が降りる。
共に何か話題を探しているが中々見付からず、
結果、黙り込んでいるという状況でかれこれ30分近くも経っていた。
時計の針が時を刻む音だけが響く中、ようやく乃梨子が小さく声を出す。

「あの、恭也さん」

「うん?」

「お、お茶のお代わりいりますか?」

「あ、ああ、貰おうかな」

湯飲みを差し出し、そこへ乃梨子がお茶を注いでいく。
緊張のためか、僅かに震える手から湯飲みへとお茶が注がれるが、それが湯飲みからずれて恭也の手に落ちる。

「つっ」

「あ、ご、ごめんなさい。すぐに冷やさないと」

乃梨子はすぐさま恭也の手を掴むと、大丈夫と言う恭也に構わず台所の水道を捻り恭也の手を入れる。

「大丈夫ですか、ごめんなさい」

「いや、本当に大丈夫だから」

謝ってくる乃梨子へと何度目かのその台詞を吐きつつ、恭也はじっと自分の手を、
正確には掴んでいる乃梨子の手を見る。
その視線に気付き、乃梨子もそちらを何となしに見詰めると、顔を紅くして慌てて離そうとする。
それを察した恭也がもう一方の手でその手を押さえつけ、離れないようにする。
その行為に驚いてこちらを見てくる乃梨子に、恭也も思わずとってしまった行動に訳が分からなくなる。
いや、本当は分かっているのに認めたくないだけなのかもしれない。
自分はこの手を離したくないと思っている。
それを恭也は確認するようにして確信すると、両手で乃梨子の手を掴み、真剣な顔を向ける。
恭也から向けられるその眼差しに照れて首まで真っ赤にし、早まる鼓動を必死に押さえる乃梨子。
その口からは呟くように、勘違いしては駄目とか、自惚れては駄目という言葉が漏れ出る。
それに気付く事無く、恭也は乃梨子へと気付いたばかりの想いを口にして伝える。

「乃梨子……。……好きだ」

思い切ってそう言ったきり、恭也は沈黙する。
言われた乃梨子は今の言葉がよく理解できていないのか、ぽかんとした顔で恭也をただじっと見詰める。
お互いに動きもせず、ただ相手を見詰めたまま動きを止める。
どのぐらいそうしていただろうか、先に沈黙に耐え切れなくなったのは恭也だった。

「その、別にだからといってどうこうという訳ではないんだ。
 ただ、伝えたかっただけで。俺はどうも口下手で、もっと上手い言い回しもできないが……。
 乃梨子が好きだ」

言って顔を紅くしつつ乃梨子をじっと見詰める。
今すぐにこの場から逃げ出したいむずむずしたものを感じながらも、何とかこの場に踏み止まる。
ようやく乃梨子の頭にも恭也の言葉が届いたのか、乃梨子はかなり慌てる。
ただし、表面上は未だにじっと恭也を見詰めたままで。
内心でのパニックを悟りようもなく、恭也はあまりにも動きのない乃梨子が心配になって、
覗き込むように顔を近づける。
と、乃梨子の片目からすっと涙が零れる。
当然のように恭也は大慌てでどうしたら良いのか困りだす。

「す、すまない。別に困らせるつもりはなかったんだが。
 何だったら、今のは忘れてくれても……」

「忘れられる訳ないよ」

「そ、そうか、すまない。変な事を言って混乱させてしまったみたいだな」

言って謝る恭也の手の上に、乃梨子は握られていなかったもう一方の手でそっと置く。
突然の事に目を丸くさせる恭也へと、乃梨子は笑みを浮かべる。

「私も、恭也さんの事が好き……です」

言って乃梨子は恭也の胸に飛び込む。
呆然とそれを受け止めながら、恭也は今の乃梨子の言葉を反芻する。
ようやくそれの意味に気付いた時、恭也は乃梨子の背中へと腕を回して抱きしめる。
先程とは違う心地よい静寂に包まれたまま、
二人はどちらともなく顔を見合わせると、そっと近づけていくのだった。



  ◇◇◇



改めて恭也は自分のやっている剣術の事を話す事を決め、乃梨子へとそれを打ち明ける。
怖がられるかと思っていた恭也だったが、恭也さんは恭也さんだから、
と思っていたよりもすんなりと受け入れられた事に嬉しさを見せる。
こうして晴れて恋人となった恭也と乃梨子だったが、この事は志摩子にのみ伝えられた。
理由は簡単で、董子に話すとからかわれると思った乃梨子の意見だった。
恭也も自分の母や悪友など、その手の人物が身近にかなりいたため、それに異論を唱えなかった。
ただ、志摩子には報告したいという乃梨子の意見に、
志摩子に世話になったと思っている恭也は賛同し、志摩子だけには改めてその事は伝えられた。
そして、遂に恭也が旅に戻る日がやって来る。
見送りには乃梨子に董子だけでなく、わざわざ志摩子まで来てくれていた。

「董子さん、本当にお世話になりました」

「良いって。それよりも、また近くに寄ったら来なさいよ」

「はい。志摩子さんもわざわざありがとうございます」

「いいえ。身体には気を付けてくださいね」

「ええ。乃梨子にも世話になったな。
 身体には気を付けてな」

「そんな、大した事はできませんでしたけど。
 恭也さんこそ、また財布を落としたりしないでくださいね」

「ああ、気を付けるとしよう。だが、ここで落としたのはある意味、良かったかもな」

言って微笑を浮かべる恭也に、三人は揃って笑う。
そして、立ち去ろうとした恭也だったが、ふと思いたって足を止める。

「そうだ、乃梨子」

「なに?」

董子がいる手前、仲の良い友達のように接する二人。
それを微笑ましく眺める志摩子は、何も言わずに二人の様子を眺める。

「うちの学園にも仏像があってな」

「えっ!? 本当に!?」

「ああ。もし、それを見にくる事があれば、ついでに海鳴を案内してあげるよ」

「うん、絶対に行く!」

「ああ、楽しみに待っている。いつか、乃梨子が海鳴に来る事をな」

言って恭也は三人へと頭を下げてもう一度礼を告げると、今度こそ背を向けて歩き出す。
恭也としては董子がいる手前、こう言っておけば、
乃梨子が将来海鳴に来ても変に勘繰られる事もないだろうという思いと、
単なるちょっとした悪戯心のつもりで言った言葉だった。
しかし、その相手が悪かった。
相手は、仏像のために高校受験をふいにした事もある乃梨子である。
恭也の言葉の真意や、ましてや悪戯などとは思わずにまともに受け取ってしまったのである。
この事により、数ヵ月後に新たなる事件が起こるのだが、それは皆さんも既にご承知の事であろう。





<おわり>




<あとがき>

はい〜、随分とお待たせしました。
美姫 「真下 烈さん、320万Hitリクエスト〜」
乃梨子との出会いに関してです。
美姫 「って、本当に遅かったわね」
いや、本当に申し訳ない。
美姫 「反省の色があまり見えないけれど」
いやいや、かなり反省してるって。
美姫 「はぁ。にしても、こうして出会ったのね」
だな。財布を落とした事による、偶然による出会い。
美姫 「ふんふん。世の中、何がどう転ぶのか分からないという事ね」
うんうん。さて、次は誰の番かな〜。
美姫 「それはアンタ次第だけれどね」
あははは、その通りだがな。
美姫 「ともあれ、それじゃあ、また次で」
ではでは。







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