Re: 短編など ( No.458 ) |
- 日時: 2010/07/25 21:39
- 名前: テン
謝った所で、きっと恭也はその謝罪の意味を知らない。 過去の罪。 未だ罰が与えられないからこそ、その罪悪感は膨らむばかり。
「ううぅぅぅぅぅぅ!」
なのはは呻き、ベッドから這い出た。 そのまま、物が散乱してしまった部屋の中、目的のものを探し回る。
「あ、あった……」
部屋の中央にあるテーブルの下。そこに目的のものはあった。きっと先ほど、これも投げ飛ばしてしまっていたのだろう。 それはなのはの携帯電話。 すぐにボタンを操作し、兄の番号を出す。そして、彼へとかけようとして……
「うー……!」
なのはは、携帯電話をベッドへと投げ捨てた。
「こんなの……」
これはいつもの発作だ。 心の病気のようなもの。 恭也がいないと理解してしまうと、なのははこうなる。 彼がどこにいるのかわかっていれば問題ない。
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Re: 短編など ( No.459 ) |
- 日時: 2010/07/25 21:40
- 名前: テン
例えば、なのはが学院にいるとき、恭也は家の一階である翠屋二号店で働いているとなのはは知っている。 例えば、店じまいをしたあと恭也は家を出ていくが、剣の鍛錬をしていると知っているし、その場所も聞いている。 目に入らなくても、彼がどこにいるのかわかっていれば、なのははこんなふうにはならない。 だが、今回のように恭也がどこにいるのかわからないとき、それを自覚してしまうと、このような精神状態となってしまうのだ。 逆に言えば、恭也の声だけでも聞けば落ち着く。 しかし、そんなことはできない。恭也に心配をかけてしまう。 恭也は、なのはがこのような精神状態であることを知らないのだ。 この数年、同じように彼女が錯乱した回数は、すで数十回にもなるだろう。とくに恭也が満弦ヶ崎に居を構え、なのはがまだ海鳴にいたときはとくに酷かった。 しかし、このことで恭也に心配をかけたくない。 だって……
「全部……私のせいだ」
今の恭也の全ては、なのはのせい。 恭也がこの満弦ヶ崎にいるのも、翠屋二号店の店長をしているのも、ボディーガードとして一線を退いたのも…… その結果の正も負も関係なく、今の恭也の立場の全てはなのはのせいだった。 なのはは恭也の真実を知っている。 恭也が誰にも話していない全てを知っている。
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Re: 短編など ( No.460 ) |
- 日時: 2010/07/25 21:41
- 名前: テン
少し話はそれるが、なのはは魔法という現象を知っていた。 この機械やコンピュータが発達し、それこそ地球と月で行き来が可能になった今の時代で、何を言っていると思うかもしれないが、これは事実だった。 なのはがまだ小学生低学年の頃、確かに魔法に触れ、それを行使していた。 そして、ついにはその魔法で世界を救うということまでしてみせたのだ。
「……おにーちゃん……ごめんない……」
だが、それこそが全ての原因。 恭也が辛い目にあった……否、今も辛い目に合い続けている原因。 なのはが、恭也の何もかもを壊してしまった。
なのはが魔法を使ってしたことは、イデアシードという人の記憶を吸収する宝石のようなものの封印。 しかし、イデアシードは同時に切り札でもあったのだ。 イデアシードは、なのはと同年代の少年が作りだしたある現象を食い止めるための対抗策だった。 その現象とはヒドゥン。 遠い遠い世界で、次元災害と呼ばれ、その現象が発現した世界は、時すら凍らされる。 それを食い止めるために作り出されたのがイデアシード。 イデアシードは、人の悪夢や忘れたい記憶を吸収し、エネルギーへと変換できる代物だった。 しかし、なのははそれに否を唱えた。 人には忘れていい記憶などないと。 クロノ・ハーヴェイと敵対し、人の記憶を守ろうとした。 色々あったが最後には、結局クロノが折れたというべきか。 イデアシードは使わず、二人の魔力という力を合わせ、ヒドゥンを消滅させることができたのだ。
「でも……」
世界は救われた。 たった二人によって。
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Re: 短編など ( No.461 ) |
- 日時: 2010/07/25 21:42
- 名前: テン
それは誰も知らないことだが、そんなことなのはにはどうでもよかった。だって、自分も兄たちのように守ることができたと思ったから。クロノが自分を忘れていなかったから。 でも結局なのはは守れなかった。 ヒドゥンを食い止め家に戻ったなのはに待っていたのは、恭也の失踪という事実だけ。 失踪。 いなくなっていた。
「うくっ……」
思いだして、またなのはの目に涙が溜まる。 恭也の失踪。 いつもならば、恭也なら突然いなくなってもそれほど心配することはないだろう。 だが、そのときはイデアシードの関係に桃子が巻き込まれ入院し、退院したすぐのとき。 家族のことを人一倍大事にしている恭也が、そんな時期に姿を消すことなどあるだろうか? あったとしても、誰かに伝えていくだろう。 そのため、すぐに知り合いたちの力を借りて探索は行われた。このゴタゴタで、クロノたちの『元の世界』への帰還が遅れてしまうことになったが。 結果から言えば、恭也は見つからなかった。 それこそリスティやフィリスたちのHGS患者の能力を駆使しても、美沙斗や月村家、綺堂家の情報網を駆使しても、恭也は見つからなかったのだ。 そして一ヶ月が経って……恭也はひょっこりと帰ってきた。 しかし、恭也は失踪に理由を誰にも告げることない。 真雪に殴られても、フィアッセに泣かれても、桃子に問いつめられても……何があっても恭也は喋らず、ただ謝るだけだった。 みんな、怒っていた。当然、なのはもその一人。 心配をかけたにも関わらず、理由を話してくれない恭也に、なのはは珍しく本気で怒った。 怒って、そして……見てしまう。 魔法を使って、恭也に何がをあったかを、見てしまったのだ。
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Re: 短編など ( No.462 ) |
- 日時: 2010/07/25 21:43
- 名前: テン
- 「ごめんなさい、ごめんなさい……」
あの一ヶ月、恭也に何があったのか、それを思いだし、またなのはは謝り続ける。 一ヶ月。 それ所ではない。恭也は長い間苦しめ続められていた。 大切な人たちのために……戦い続けていた。
殺して、殺して、殺して。 守って、守って、守って。 殺して、殺して、殺して。 守って、守って、守って。
その繰り返し。 同胞すらも殺し続けて…… 恭也は知った。 自分が何者であるのかを。
「くぅ……ああ……」
それらが全て、なのはのせいだった。 なのはが世界を守ったせいだった。 クロノに自分のことを忘れて欲しくないと思ったせいだった。 そのために、恭也は地獄を見た。 否。 恭也は自分の置かれた状況故に、そしてその想い故に、自ら地獄の門を開け、その先の地獄に留まり続けた。 恭也の意志だ。そこになのはの行動は関係ない。 だが、それがなんだと言うのだ。 その状況を作ってしまったのは、間違いなくなのはで、ひいてはなのはのせいで恭也は地獄への門をくぐった。 全てはたまたま。 たまたま恭也だった。もしくはずっと昔から決められていたことだった。
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Re: 短編など ( No.463 ) |
- 日時: 2010/07/25 21:43
- 名前: テン
ヒドゥン。 世界すら滅ぼすそれ。 それを消滅させるという行為。 言ってしまえばエネルギーとエネルギーのぶつかり合いのようなもの。 そんな力は、気付かれない程度だが、世界に様々な影響を与えていた。 それでもせいぜい一瞬ほどの停電程度のものだっただろう。 しかし、それがまずかった。 恭也はその影響をもろに受けてしまったのだ。
「おにーちゃん……」
その結果が、一ヶ月の失踪。 恭也にとっては長い長い一ヶ月。 そして、その結果は今の生活に続いていた。 今も恭也は縛られ続けている。 上空にある月に。 同時に彼は疲れてしまっていた。
それを知って、なのはは魔法を使うための媒体を、魔法の力をくれたリンディに返した。 自分が、魔法が、恭也を不幸にしたのだ。 魔法に希望など、なのはにはすでに見出せる訳もない。 それこそ、魔法という関係のあるもの全て拒絶した。 リンディも、クロノも。 恭也の事実は、なのはには重すぎた。 トラウマだ。
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Re: 短編など ( No.464 ) |
- 日時: 2010/07/25 21:44
- 名前: テン
媒体は当然として、魔法の関係者であるリンディとクロノを見ていると、自分のしたことを見つめることになり、発狂しそうになってしまっていたのだ。 リンディたちは、その理由を知らないが、何かを察したのか、最後に謝って、遠い世界に帰っていった。 別になのははリンディたちを恨んでなどいない。 しかし、それでも無理だったのだ。自分の荒れ狂う精神を御するのは。 それから一度もクロノたちとは会っていない。
「会う意味も……もうない」
ないのだ。 確かに今だからわかる。自分はクロノに淡い想いを抱いていただろう。 そして今ならば、多少精神も落ち着いた。今回のようになることもあるが、それは恭也がいないから、失踪したときのことを、その間の恭也を思いだしてしまうからそうなってしまうだけ。だから今ならはクロノとも落ち着いて会うことがでるだろう。
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Re: 短編など ( No.465 ) |
- 日時: 2010/07/25 21:45
- 名前: テン
しかし、今だからこそ、子供の頃の想いなど思い出せない。 所詮は子供の頃の話だ。 子供だった頃、たった数週間触れあい、クロノに惹かれた。だが、この数年の時間は、そんな数週間程度の時間と、まだ幼かった恋にもなりきれていなかった小さな想いを吹き飛ばすには十分過ぎたのだ。 自分の人生はすでに決めた。 そこにクロノとの接点などない。 クロノが入り込む余地はまったくない。 今の自分の全ては恭也のためにある。
「贖罪……だけじゃない」
贖罪というのもある。だが、同時に恭也を愛している。 それは確かに贖罪から始まったものだ。 最初は、ただただ兄のために何かしたくて、兄に許してもらいたくて。 兄があんな目にあったのが、自分のせいだと兄が知らなくても。 そのために、なのはは何だってした。何だってできた。 恭也のために生きる。 その想いはいつしか、だが確かに男性に向ける愛情へと変わった……いや、正確に言えば変わったのではなく、贖罪への想いの半分が愛情になった。 しかし同時にそれは、子供の頃の淡い想いなど比較にならないほど強いものだ。 贖罪から始まり、罪の重さ故に、それが半分でも愛情に転化されれば、その大きさは計り知れない。 人はそれを錯覚というだろう。 罪の重さから逃れるためというだろう。 ずっと傍から離れないと決めたから、だからこそ勝手にそう勘違いしただけというだろう。
「それでも……私はいいんだ」
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Re: 短編など ( No.466 ) |
- 日時: 2010/07/25 21:45
- 名前: テン
- 錯覚だっていい。
勘違いだったいい。 他の何かの理由だっていい。 切欠なんて何だっていいのだ。 今のなのはには恭也しかいない。 なのはは、恭也から離れての幸福など求めてなどいなかった。
しばらく自分の身体を抱きしめ、何とか落ち着いた。
「ふう……部屋を片づけないと」
なのははつい先ほどまで錯乱していたというのに、なのははそんなことなかったかのように平静を取り戻していた。 これは最早慣れだ。精神の繰り替えが異様にほど簡単に行えるようになってしまっている。
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Re: 短編など ( No.467 ) |
- 日時: 2010/07/25 21:46
- 名前: テン
それから先ほど投げたりしたものを元の場所に戻していく。壊れてしまったものは、皆無ではないもののそれほど多くない。元よりこうなることは想定しているため、あまり脆いものは置いていないのだ。 今のなのはの精神は、ある意味でおかしくなっていた。 冷静さと脆さがせめぎ合っている。 なのはは、部屋の片づけをを終えると、すぐに机へと戻った。 今のなのはがすべきことは、ただ勉強し、月のことを知ること。そして……
「見つけないと」
恭也を縛る呪いを解くを方法を。
「明日は休みだし、遺跡、探さないと」
なのはにはしなくてはならないことが多いのだ。 そして、再び本を開き……
「っ……」
何の偶然か、再びあの肖像画がのページが出てきた。 その肖像画のタイトルは、月の文字で英雄と付けられている。 そして、その肖像画の男性は……
「おにーちゃん……」
なのはの兄である恭也とうり二つの顔を持っている。 だがなのはは首を振り、ページを捲り、再び勉強を始めたのであった。
それは月のお姫様が地球に下りてくる二週間前のこと。 そして、その二週間後全てが始まる……いや、続きが再開されることになる。 青年と姫君と……青年の妹の止まっていた時が、再び動き出す。
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Re: 短編など ( No.468 ) |
- 日時: 2010/08/13 05:14
- 名前: テン
微ダーク。ヘイト、アンチ的な話。 そんな感じのが苦手な人は回避推奨。 以上です。 他を書くとネタバレになりそうなので。
朝起きたら知らない天井でした。
「嘘ん」
むくりと起きあがった『少女』は、そんな声を上げる。
「え、少女?」
『少女』が自分の身体を見つめれば、短くなった手足に、小さくなった身体が目に入った。 暫くその身体を見つめること十数秒。
「なんでだよ!? っていうか、俺って死んだじゃなかったの!? トラックに轢かれたじゃん! 起きたら女の子ってどういうことだよ!?」
自分の出来事を色々と叫んでみるが、状況が変わるわけもなかった。
「え、なに? もしかしてSSとかによくある憑依とか転生のあれ?」
彼……というか、彼女はそういうのが好きだった。 どう考えても、それこそ今頃グロいことになっていたはずの自分の身体が、今は女の子。 しかも、体付きからして、まだ小学生ぐらいだろう。 声も異様に高いし。
「転生して憑依しちゃったのか? つか、どうせなら都合のいい能力とかくれよ、神様。ついでに、男の身体がよかったんだけど。TSはあんまり好きじゃないんだが。ハーレム作っても楽しめないじゃん」
素なのか、それとも混乱しているのか、『彼』は自分に都合にいいことを喋りまくる。
「いやいや、とにかく俺が誰なのか調べないと」
ベッドから立ち上がり、辺りを眺めると、
「うん、凄い少女趣味の部屋だ」
ピンクのものが多い。 女の子の部屋とか、そんなものなのでろうか。周りに女の子はあまりにおらず、彼女が出来たためしもない彼……現彼女……にはわからないことだった。 ……………… ………… ……
「……高町なのは」
部屋を調べ、鏡の前に立った彼女の結論はそれ。 今の『彼』は高町なのはという少女だった。
「え、俺、将来魔王様? もしくは冥王?」 しかし、自分が高町なのはであることは間違いない。 名前が明記されている持ち物には、確かにそんな名前が書いてあったし、なんか鏡に映る自分はどこかで見覚えがある。 『彼』の記憶では、その少女はあるアニメの主人公であった。
「おお! ってことはフェイトに会える!? やべえ! ホントに男の身体じゃないことが悔やまれる!」
男の身体なら、フェイトにあんなことやこんなことができたのに! とか、叫ぶ小学生の少女。 端から見たら危ない人物だった。
「いや、待て、リリカルなのはなら、それこそはやてとかシグナムとか、色々な女が。この際女同士でも……この身体、魔力だけなら腐るほどあるずだし、展開わかっているし」
ぐふふ、と笑う小学生の……以下略。 そんなときだった、部屋のドアがノックされた。
「げっ!」
きっとなのはの家族だ。士郎か、桃子か、美由希か、それとも恭也か知らないが。
「えっと、入っていいよ」
何とか高町なのはの口調を思い出しながら声を出すが、自分自身で気持ち悪いと思ってしまった。
「なのは? 何しているんだ? 何か大声が聞こえたが」
入ってきたのは、一人の青年。
(高町恭也……だよな?)
高町なのはの兄。 確か、リリカルなのはのスピンアウト元の作品であるトライアングルはーとの主人公。とらいアングルハート、だったかも。 しかし『彼』は、そちらの作品は興味なかったので、軽くしか知らなかった。 恭也が主人公のSSも少し見たことがあったが、あまり肌に合わなくて、大抵序盤で読むのをやめていた。いやいや、魔導士相手に生身で勝てるわけないだろ。
(おいおい、どこの誰だよ。高町恭也はそこまで美形じゃないとか言ったのは。無茶苦茶格好いいぞ)
今は確か月村忍と付き合っているはずの彼は、ホントに美形だった。
(くっ、忍を寝取ってやりたかったが、これは無理か? むかつく野郎だ)
考えることが最低な『彼』は美形が嫌いだが、美形とは争わないと決めている。勝てるわけがないのだ。
「なのは?」
訝しげに声を上げる恭也に、『彼』は正気に戻る。
「ご、ごめんね。ちょっとへんな夢を見て」 「……そうか」
それで納得したのか、恭也は頷く。
(ん? 恭也って無茶苦茶シスコンらしいから、もっと突っ込んで聞いてくると思ったんだけど。それになんか表情硬いな。もっとよく笑ってなかったか?)
そんなことを考えていると、恭也は朝食ができてるから、リビングに降りてこいと告げると、部屋から出ていった。
「んー、もうちょっと情報収集したかったんだけど、仕方ないか」
それから『彼』は着替えを始めたが、自分の身体に少し欲情してしまったのは秘密だ。
◇◇◇
「…………」
なのはの部屋のドアを閉めた恭也は、眉を寄せていた。
「なのは?」
あれは本当になのはか? 雰囲気が違った。 気配が微妙に違った。 話し方が微妙に違った。 多少の違和感。多少のズレ。 全てが多少とはいえズレているからこそ、何かがおかしかった。 それは恭也だからこそ気付くこと『父親代わり』の恭也だからこそ気づける。
「……考えすぎか」
見た目は確かになのはだ。 彼女が見た夢とやらで、少しおかしく見えたのかもしれない。 恭也はそう結論付け、なのはの部屋から離れていく。
しかし、この時感じた違和感は正しく、その先の未来はすでに翳っていたことに、恭也はまだ気付いていなかった。
◇◇◇
「おかしい」
なのはの形をした『彼』は、自分の部屋……なのはの部屋だが……のベッドに倒れ込んでいた。 高町なのはに憑依・転生して早一週間。この世界の異常に気付いた。
「高町士郎がいない」
士郎はすでに亡くなっていた。しかし、原作では大怪我をしたことはあったものの、生きていたはずだ。
「それにレンとか晶とかって何だよ」
士郎はいないのに、なぜか他の同居人がいた。 『彼』はとらいあんぐるハート3を知らないからこそ、その人物たちと設定を知らなかった。 そして、自分がその世界にいるということもわからず、実はリリカルなのはとは違う世界なんじゃないか、という程度のことしか考えていない。
「アリサとかすずかとかもいないし、恭也とかバカみたいにもててるし、忍と付き合ってないし、どっちが主人公だよ。いないはずの連中、みんな邪魔くせぇ。俺の邪魔だけはすんなよな」
ぶちぶちと文句を言う。
「くっそー、やっぱり頼みはフェイトかー」
頼むからリリカルなのはの世界であってください、とか呟く。 フェイトとかはやてたちだけが希望なんです。
馬鹿な転生者。 愚かな憑依者。 『彼』は知らない。 なぜ死んだはずの自分が、まだ生きているのか。 そして、そのために払った犠牲は何なのか。 この愚か者などより、犠牲にされた者が誰より大事であると言うものが、どれだけいるのかを。
◇◇◇
ある日の夜のことだった。 『彼』は、恭也に呼び出された。 ただついてこいと。 その言葉には有無を言わさぬ迫力があった。 連れていかれたのは、高台にある神社の境内。 『彼』は、ここに可愛い巫女さんがいるということしか興味がない。まあ、その子も目の前にいる、今の自分の兄に惚れているようだったか。
(くっそー、我が兄だが呪ってやりたい)
そう思っても悪くはあるまい。『彼』の理論なら、だが。
(あの狐はなんだったんだろうなぁ)
少し前、ここの巫女さんを見学に来たとき現れた子狐。 その子狐は、突如『なのは』に飛びついてきたが、暫くして何かに驚いたかのように、全身を震わせると、逃げ出してしまったのだ。
(自分から突っ込んできたのに、何て態度の悪い)
やはり内心でブチブチと文句を言う。『彼』にはそれしかできないのだ。 虚構と思っている世界に、文句を言う程度しかできない、やはりその程度の存在。 恭也は、境内の真ん中で止まった。『彼』もそれにつられて、だが少しの間隔を恭也との間に開けて止まる。 そして、恭也が振り返った。
「は?」
その姿を見て、『彼』は呆気に取られる。 恭也の手には、いつのまにか刀が握られていた。それは高町恭也の武器。小太刀。その程度のことは『彼』も知っていた。 しかし、なぜ今恭也がそれを持っている? どうして、その切っ先を……
「お、お兄ちゃん?」
自分に向けるのだ。
「貴様は誰だ?」
その恭也の言葉でわかった。 ばれたのだ。 自分が高町なのはではないと。 だが、どうすればいい? 言えばいいのか? いつのまにか、自分は高町なのはの中に入っていたのだと。 わからない。どうすればいい!?
(何でだよ!? 憑依とか転生者の主人公とか、オリ主とか、クロスした主人公とか、みんな強いじゃん! みんな好き勝手にやってるじゃん! こういうときだって、ホントのこと言えば大抵なんとかなるだろ!?)
駄目だ。
(こいつだって、クロスしたときとか、好き勝手にやってるって聞いたことあるのに!)
駄目だ。駄目だ。
(何で俺は駄目なんたよ!?)
駄目だとわかってしまう。 でも。でも。 何が駄目なのか、わかりたくない。
◇◇◇
満月の光が夜を淡く照らす夜。 彼ら二人は、神社の境内にいた。 青年は、手に持つ刃物を少女に向けている。
「お兄ちゃんっ……」
そのうちの一人の少女が、目の前にいる青年に懇願するように声を向けた。
「……っ」
が、青年に浮かぶのはただの怒気。 まるで世界全てを呪うかのように、目に怨嗟を溜めている。
「ねっ、お願いだよ、剣を下ろして」
少女のその声には、ただ焦りと恐怖があった。 いつもの青年ならば、その恐怖を和らげるために、不器用ながらでも笑みを浮かべてみせただろう。 だが、
「黙れ……」
青年の口から漏れたのは、世界を呪うかのように、重く冷たい言葉。
「お兄ちゃん!」
ああ、そうだ。青年は目の前の存在が許せない。
「その顔で、その声で!」
その存在が許せない。
「私は……」
その顔で、その声で自分を呼ぶ彼女が、心の底から憎い。
「これ以上なのはを汚すなぁ!!」
目の前の少女は、もう彼の愛する妹ではないのだ。
「わ、私は……なのはだよ?」
それでも恐怖からか、自分を青年の妹だと言う妹の形をした、しかしその精神は別の何かへと成り果てた青年が憎むべき者が言う。
「俺のような者ならともかく、ただ平穏に生きていたなのはを殺した貴様のようなクズが、なのはを騙るな!」
殺そう。 目の前のなにかを。 妹の形をしたナニかを。
「貴様は……死ね」
◇◇◇
「恭也! なのはが、なのはがぁ!」
那美に臨海公園に呼び出され、そこに赴いた恭也だったが、那美の姿を鉄柵の傍に見えたとき、その横にいた少女形態の久遠が駆けだし、彼へと飛びついた。
「久遠? どうした? なのはなら家にいるぞ」 「ちがう、ちがう、あれはなのはじゃ……ない!」 「…………」
久遠も、そう感じたのかと、恭也は息を呑む。 そう、なのはが……違う。 漠然と恭也は思っていた。 例えば、自分と兄と呼んだときに感じる違和感。 例えば、どこか自分を嫌悪するかのような視線。 例えば、会話の隅々にある負の感情。 ……何より……左利きであるあの子が……なぜ……右手を多用するようになっている? それらを恭也は感じ取っていたし、似たようなことを家族たち全員が気付いていて、心配していた。 これが恭也だけに向けられるものなら、反抗期でもきたかと思うところだが、全員に、そしてなのはに関わる全ての人たちに似たような感じで対応していた。 ちがう、ちがう、と久遠は首を振り、泣きじゃくる。 すると那美もまた近付いてくる。その目には、久遠と同じく涙が浮かんでいた。そして、同時にあの心優しい那美が、怒りも浮かべている。
「きょう……や……さん」 「那美……さん?」 「なのはちゃんが……た」 「……は?」
今、那美は何と言った? 何と言ったのだ? ああ、聞こえていた。 聞こえていたが、理解できない。 したくない。 彼女は……こう言ったのだ。
『なのはちゃんが……亡くなりました』
◇◇◇
『人は魂がなければ、生きていけません、いえ、魂がなくなった時点で、その人は死んでいます。そして、一人の肉体には一つの魂。それだけしか入らないんです。それが肉体という器に限界です。そこに精神性は関係なく、もし二つの魂が一つの肉体という器に入ったなら、器が壊れるか、もしくはどちとらかの魂が……』
恭也にはわからない。 退魔師ではない恭也は、魂の意味が、概念的にしか理解できない。
『なのはちゃんの魂は、もう……』
だが、それがなくては身体が生きていても、死んでいるのと同じだというのはわかった。
『他の魂に……その身体へと侵入されて……許容量の限界のため……なのはちゃんの魂は……押し潰されて……消滅……していました、少なくとも……その身体から』
そう、なのははもう、どこにも存在しない。 今ある彼女は……
『何かしらの理由で転生が失敗したのか、完全な形で霊障が乗り移ったのか、それとも術によっての故意なのかはわかりません……』
もう……
『他人の魂が、なのはちゃんの身体という器に入り込み、その魂がなのはちゃんの魂を押し潰し、散り散りになって押し出されたんだと……思います……っ!』
なのはの魂は、吸収されるもなく、他者の魂に、勝手に侵入され……押し潰され、弾き飛ばされ……消えた。
『だ、から……だから……』
もう、那美たちでも助けられない。 ないものを、失われたものを戻すなど、退魔師である彼女らにも不可能だ。 すでになのはは死んでいた。 身体だけを他人が、勝手に動かしている。 もし、もし、そのなのはの中にある別人が、故意でなければ、そして多少の罪悪感でも持っていれば、救いにはならなくても、慰めにはなっただろ。 だが、思いだしてもみろ。 あいつは、そんなもの欠片も持ち合わせていなかった。母に、姉たちに、兄に、知り合いたちに、嫌悪すら持っていた。なのはがどう生活していたか理解もせず。 自分の状況を理解していなかった。そんなわけがない。あいつはなのはのフリをしていたのだ。 きっとあいつは、少なくとも高町なのはを知っていた。どういう理由で知ったのか知らないが、確かに知っていたのだ。
「あ……」
恭也はいつのまに、鍛錬に使う林に入っていた。そんなことにすら気付かなかった。
「ぐっ、ああ……」
父が死んだときすら流れなかった涙が流れてくる。
「ああああああああああああああっ!」
守れなかった。 守れなかった。 守れなかった。 それどころか、己は最愛である妹の最後の瞬間すら傍にいてやれなかったのだ。 久遠が気付かなければ、那美が霊視することもなく、なのはではないナニかは、好き勝手にやっていただろう。 ならばそう、気付いた今、どうするのだ?
「殺す」
涙をピタリと止め、恭也は暗く濁った声で呟いた。 殺す。 なのはのフリをしたあれを。 醜悪にも、なのはとして生きていこうとするあいつを。 そう、再びの宣言。
『俺が殺します』
先ほど恭也は那美にそう言った。
『は、い』
なのはのために泣く、日頃、憎しみなど浮かべない彼女が、父母を殺した妖狐すら許した彼女が、恭也を止めなかった。 だってわかるのだ。なのはのフリをするなにかは、決して罪悪感など持たない。なのはに悪いとすら思わない。 それに同情することなどありえない。
『これは霊障です。後の処理は私が……します』
つまり罪にはならない。 退魔組織は、警察組織にも入り込んでいる。ちゃんとした資料を送れば、今回なのはを殺そうとも、それは霊障の被害として処理される。 もっとも、それをありがたいなどと、恭也は思いもしないが。
さあ、殺しにいこう。 あれを。 なのはのフリをした、悪霊以下の低級な存在を。
◇◇◇
「ああっ……」
『彼』は、目の前の現実が信じられなかった。 転生先で、憑依した先で、その兄に殺されそうになってるこの現実が。
「お、俺がなにしたって言うんだよ!? 別に俺だって好きで高町なのはの中に入ったわけじゃないんだ!」 「……とうとう本性を現したか、下種」 「だって! 気付いたら、俺はここにいたんだよ! 死んだと思ったら!」 「何をした? 気付いたら? 貴様は死んだというのに、なのはを殺し、それでも生に縋り、なのはの身体を勝手に動かして、なのはのフリをした。そら、罪深いことだろう?」
でも、それだって、自分が望んだことじゃない。 それに、
「た、高町なのはだって、まだ俺の中にいるかもしれない!」 「いない。いたとしても、お前の中にはいない。お前という人格が、魂が、存在が、高町なのはという人格を、魂を、存在を押し潰し、散り散りに押し出し、消し去った。そうでなけば、貴様を……貴様が使っている身体を殺そうとするかよ。何としてでも、その身体になのはを戻す方法を探してやるとも」 「なんでそんなことわかるんだよ!?」 「そういうことがわかる人がいるんだ。なのはを殺し、その身体を乗っ取ったお前が、まさか不可思議な現象を否定などしないだろうな?」
不思議な現象の否定。 それが高町なのはの身体の中にいる限り、『彼』にはできない。 しかし、だからといって、このまま死にたくない。
「でも、俺に責任なんてないだろ!? 俺は望んで高町なのはの中に入りたかったわけじゃない! 殺したかったわけじゃない!」 「……ああ、過失でも、故意でもないというのなら、それは認めてやろう。だが、それが何だという? お前という塵芥などどうでもよく、なのはを最も大切にしていた、俺たち家族や、その友人たちにとって、それが何の慰めになる? 原因と過程など関係なく、貴様がなのはを殺したという結果という事実だけが、俺には重要なんだ」 「それは……!」 「何より貴様が……! 今の今まで、自分がなのはを殺したことなど、気付きもせず! なのはの身体を使うことに、罪悪感すら浮かべず! なのはがどう生きてきたのかも知らずに、なのはに成り代わろうとした貴様が! どこにも罪はないというのか!? ああ、そもそも死に絶えて、他者の魂を殺し、その身体に寄生してまで生きていることが、一番の罪だとも! 元より人間らしく、死ぬべきときに死んでいろ! 貴様の死に、無関係な人間を巻き込むな!」
殺気が込められた叫び。 それとともに、恭也は一歩前に出た。 それにつられて、『彼』は歯をカチカチと鳴らしながらも、一歩後ずさった。 そして、この状況でわかったことが一つある。
(高町恭也は……魔導士なんか目にならない。強いかなんか知らない。でも……怖い。怖いよ)
この男は怖い。 だが、『彼』はわからない。 なぜ恭也がここまで怖いのか。それは単純なことなのだ。 大切な者を『彼』が奪った。それだけが原因なのだと、彼は絶対に気づけない。
「貴様自身は、思わないのか? もし、お前の大切な人間に、いつの間にか誰か他の人物が成り代わり、その真似をしている。ああ、それも元の身体の主に悪いとすら思っていない。貴様はそれを許せるのか!?」 「でも、だからって、殺すのかよ! 何もしていない俺を!」 「貴様はもう死んだのだろう。元に戻るだけだ」 「そんなの、割り切れるかよ!」 「貴様は! 割り切れもしないあいつ自身を、また明日が来ると信じていたあいつを、明日がないと割り切れも、悩みもできなかったあいつを、なのはを殺しただろうが!」 「殺したから殺すのか!」 「そうだ。だが、負の連鎖など貴様が騙るな、憎悪が何も産まないなどと騙るなよ」
ぐっ、と『彼』は、続く言葉を呑み込んだ。
「貴様が誰かなどわからん。負の連鎖など起きん。なぜならお前はもう死んでいるのだから」 「なら、妹を殺すのかよ!」 「わからんやつだな。なのははもうお前が殺した」
殺した。殺したと。 自分はそんなことしたいなどと思ってはいなかった。 神様なのか何なのかは知らないが、恨むならそういう存在を恨めばいい。 彼の主張はそんなもの。その程度のもの。 自分は悪くない、と。
「だからって! 人を殺してまで、そんなことして何になるんだよ! そんなのただの犯罪者の理屈だ!」 「それでいいとも」 「なっ!」 「そうでなければ誰がお前を裁く? 断罪する? 法など貴様には適用されないだろうよ」
それを聞いて、『彼』は内心でほっとした。 彼の言葉にヒントを得た。 間違ったヒントを。 すでに覚悟した人間には意味のないヒントを。
「だったら、俺を殺せば、あんなたは殺人者だ。妹を殺した凶人として捕まる。家族にも恨まれるぞ」 「だからどうした?」 「なっ!?」 「貴様が質問したことだろう? そして言っただろう、犯罪者の理屈で構わないと」
また一歩恭也が近付く。 『彼』はもう恐怖で動けなかった。
「どう足掻こうと、法では貴様を裁けない。犯罪者が無罪になるのとは違う。警察に捕まらない犯人とも違う。こうしてお前がいるという罪はあるのに、罪状がない。なら、俺自身が裁く」 「そんな……」 「それと、まあ、俺自身は気にしないが、貴様が絶望させるために、この世を呪わせるために言うが、お前を殺しても俺は罪には問われない」 「なんで!?」
完全犯罪でもするというのか? だが、違うが気がする。 恭也は淡々と言った。
「この世には霊障……お前のような粗悪な悪霊のようなものから、国にすら恐れられる大妖まで存在し、表の多くの者が知らずとも、国の上は知っている。だからこそ、超法規的に、それらを治めるために出た被害は、それが本当に必要なものであったなら、罪には問われない。 この場合、事実すでになのはは死んでいると……そう、取れられた」
絶句している『彼』にはわからないが、恭也の瞳は僅かに揺れている。 それはなのはが死んだことを口をしたからなのか。
「そして、そのなのはの身体を操るお前は、霊障として、粗悪な悪霊として、存在しなかったこととなった。そして事実その通り。お前はなのはを殺した悪霊として終わる。誰にも送られることなく無に還る」 「そんな……」
馬鹿な。 ああ、だが、そう、『彼』はそういうのを求めていた。 どこかの世界にあるアニメのように、魔法で戦い、そこで出会う少女たちと仲良くなる。 そんな不思議な世界を夢見て、それは確かにあり、それが牙を剥いた。それだけのこと。
「あああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
確かに『彼』は絶望した。こんな世界に連れてきた誰かを呪い。これからの自分を幻視して、この世を呪う。 しかし、そんな絶叫を聞いても、恭也は眉一つ動かさなかった。
「それはなのはの身体だ。本当なら手足を切り取り、八つ裂きにして、殺してほしいと懇願するまで嬲り尽くしてやりたいところだが、なのはの身体にそんなことはしない。 ただ……過失でなかろうと、故意でなかろうと、最後まで後悔して再び死ね」
いつのまか剣を振り上げていた恭也が、たまった怨嗟を言葉に吐き出す。 それが振り下ろされようとしてたとき、『彼』は駆けだした。 恐怖。 死にたくないと叫び、ただ走る。 神社の脇にある森に逃げ込み、足を躓きながら、しかし振り返らず。振り替えれるわけがない。自分を殺す死神はひたひたと付かず離れず後ろに付いてきていた。 そして、どれだけ走っただろう。
「……嘘、だ」
目の前にそれはいた。 大きな木の幹り前に『彼女』はぽつんと立っている。 そして、その小さな手を『彼』へと向けた。
『返して。ねぇ、返してよ』
『彼女』はただ返してと言う。 その意味が『彼』には、簡単に理解できてしまう。
『返して。私は……まだおにーちゃんたちと……一緒にいたかったのに』 「あ、ああああ……!」
『彼女』……『彼』と同じ姿形をした『高町なのは』は、怨嗟を向けてくる。 そして、
『「死ね」』
背後から聞こえた声と、目の前の『高町なのは』の声が重なり、『彼』の胸から鉄の刃が生えた。
「あがっ、ああ……」
刃が抜き取られた瞬間、空いた穴から血が噴出する。 まるで冗談のように、水のように血が流れ出した。
「痛ぇよ。痛い。痛いよ。痛い。痛い」
痛い。 これが地獄の痛みだと言うのなら、それを信じてしまうほどに。 ああ、だけど、徐々に……その痛みすら消えていき……
「寒…い、さむ……い……よ」
ただただ寒くなる。 ああ、これが死か。 一度目に死んだときは、その痛みさえ感じなかった。 今度こそ死ぬのかと、そう思ったとき。 本当に死にたくないと思った。 そして同時に思う。 恭也の言うとおりだ。あのとき死んでればよかった。そうしたらこんな恐怖を味わうことはなかったのに。痛みもなく死ねたのに。
「死に……たく……な……い……」 「駄目だ。お前は死ぬ。生かさない。また他者の身体を使えば、俺もまたお前を殺しにいく。無限に殺す」 「なん……で……お……れが……」 「お前がもし、なのはの死を悼んだなら、なのはを気にしたなら、なのはの身体を奪ったと自覚しているなら、なのはのこれまでを人生を、なのはが築いた他者との関係を少しでも理解しようとしてくれていたなら、こうまでしなかった」 「…………」 「その死を受け止め、お前を受け止めることはできずとも、なのはがお前を生かしたと、自身を騙すこともできた」
そこまで言って、恭也は頭(かぶり)を振る。
「いや、それも無意味か。不破である俺は、死者の復活など許さない。守るために殺すが故に許さない。死を下す者であるからこそ、理を外れた死者の復活を認めない。そうでなければ、今まで不破が殺してきた者たちは、一体何だったと言うんだ。何のため殺してきたというんだ。人が蘇るなら、不破などいらない。そうであるが故に、貴様が生者ではなく、死者だというのなら、やはり殺しただろう、そのときは怒りのためではない、という違いはあるが」 「…………」
ああ、そうか。わかってしまった。
「お……は……」
ただ、この世界が虚構だと、夢の世界だから、好き勝手にできると、ただ自分勝手に思っていた。 その自分のために、何が犠牲されたのか、その犠牲にされた者を大切だと思う者がたくさんいるのだと知らなかった。だって、この世界は『彼』にとっては作り物の世界だから。 だから自分を中心に回っているのだと、勝手に勘違いしていた。 『彼』と同じ立場の創作のキャラたちの何人かが、その世界を虚構ではないと言った。現実だと言った。
「そん……わ……るか」
――そんなわけあるか。
虚構はどこまでも虚構だ。 例え、虚構の世界にいけたとしても、それはどこまでも、現実に似た世界にしか見えるわけがない。 虚構の世界が、目の前に広がって、それが現実だと思えるなら、それはむしろ狂っているのだ。 虚構のキャラたちが死んで泣けるなど、それは人形が壊れて泣くようなもの。そんなこと普通はできない。それができるのは子供だけだ。大人になれない永遠の子供だという宣言。もしくはその虚構の世界を、虚構であると認識しながら大切に思っているだけ。 だが、非現実の虚構が目の前にあったとしても、主人公になどなれない。その世界の主人公には決して成り代われない。 なぜって、『彼』は現実しか知らないのだから、どこまでも現実的にしか世界を見れない。主人公のような行動は、その世界が不可思議であるほど取れるわけがない。 現実を生きた『彼』や、それと似た存在たちは、現実世界の現実しか知らないのだから。 例えば、先ほど恭也がいった超法規的処置。もし現実にあって、それがばれたなら、それこそ非難が上がるだろう。 また恭也の言う、不破云々など理解できるはずもない。 そして、このように人を……妹と同じ姿をした者を簡単に殺せるわけがないだろう。 しかし、虚構であり、虚構に生きる世界の人たちは、それを当然と受け止める。 そういった差が、そのような乖離が、覆るわけがないのだ。 だからそう、その差で、今『彼』はここら存在し、死のうとしている。 『現実』の人間だからこそ、彼が言う虚構の世界から弾かれ、真の意味で死に逝く。 そして、この世界を虚構とし、現実と認められないが故に、認めれば狂ったという烙印を押されるが故に、他の生者をただのキャラクターと置くが故に、それを大事にする存在(キャラクター)たちを忘れた。 そして、彼が言うキャラクターたちは、彼が言う虚構であるこの世界こそが現実なのだ。 だから死ぬ。 現実と虚構の差。 埋められるわけがない。理解した。埋めた時点で狂人だ。
「お……け……だ……ない……」 「…………」
――俺だけじゃない。
『彼』はそんな呪詛を吐いた。 誰かの身体を奪って生きるのは、自分だけではない、と。 『彼』自身は、本当はどうなのかわからない。だが、自分という前例がいるのだ。いても不思議ではない。そして、どこか確信していた。自分と同じ主人公気取りで、誰かの身体を乗っ取った死者が他にもいると。 死者の復活を許さないと言うのなら、探してみせろ。いるかわからない者を探して、延々と妹のいない世界を渡り歩け。自分を殺したお前にはそれがお似合いだと。 自身をこの世界へと送ったなにかを呪い、この世界を呪い、最後に恭也へと残す呪いであり、またこの世界にまだいるであろう、自身と同じ立場の者へと残す呪いの言葉。 自分が死ぬというのなら、皆死ねばいい。お前たちも高町恭也に殺されろ。そして、高町恭也は、妹がもういないという絶望を抱きながら生きていけ。 でも……納得できないことがただ一つ。
「……死……たく……い」
そう、最後に納得できないことを呟き、『彼』は今度こそ死に絶えた。
◇◇◇
小太刀を落とす。 もう握っていたくなかった。 例え妹でなくなっていたとしても、妹の身体を斬って剣など。
「っ……」
ああ、まったく心の名に渦巻く怨嗟の塊は溶けない。 間違いなくなのはの身体を乗っ取っていたものは死んだ。 その魂が身体に宿り、なのはの身体を僅かに変質させたが故に、その身体を動かせる、そう那美は言っていた。そうでなければ、なのはの身体で、右利きにはなれないのだ。 つまり、もうその身体すら、半ばなのはのものではなくなっていた。 しかし、そうであるが故に、その身体を殺せば、なのはを奪った存在も再び死ぬ。 最後まで、なのはの全てを奪っていったのだ。あの男は。 男、だっただろう。 男が、妹の身体を……幼いとはいえ、女性であるなのはの身体を好き勝手に動かしていた。それを認識すると、吐き気がしてくる。 恭也は、なのはの身体を横抱きにして持ち上げた。
「くっ」
もうこの世のどこにも、なのははいない。 それを思うと、涙が止まらない。 守れなかった。 なのははどこにもいない。なのはならば、あの男のように、他者の身体を使うことなどありえない。そんなことになったら、自分で消滅を願うだろう。 だから、どこにもいない。 もし再び会える可能性があるというのなら、理の内である、真っ当な転生の先。高町なのはではなくなった誰かだ。 それはもう高町なのはではないのだ。 だからもう、会うことは……ない。 しかし、
『おにーちゃん』 「っ!?」
聞こえた。 それは間違いなく、なのはの声だった。
『ありがとう、私の身体……取り返してくれて』 「…………」
それだけ。 それだけが聞こえて、姿は見せず、もう声も消えていく。 霊障というものを知るだけに、その声がなのはであったというのを確信した。
「……近いうち……俺もそっちにいく。待っていてくれ、なのは」
殺す。 そう決めた。 ならば最後までやろう。 似た状況の全て。似た存在の全て。 今を生きる人間の精神を、魂を殺してまで生き足掻く、醜い人から墜ちた寄生虫。 その全てを殺し、それからなのはの元に行こう。 そう誓い、なのはの身体を抱きしめ、恭也は歩き出した。
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Re: 短編など ( No.469 ) |
- 日時: 2011/04/29 19:30
- 名前: テン
イレブンアイズの続編(ファンディスク?)が手に入らなかったので、以前書いたプロットそのままに、やけくそ気味に書きました。続編をやってないので矛盾するかもしれませんが。 とらハクロス。というか、恭也しかでません。 改変ばかり。独自設定ばかり。 よくあるチートやらオッドアイやらを使いながらも、うまく書けないか、読んでくれる方が納得できるものを、というのを目指したものだったのですが、続きません。 プロローグと言いながら、しつこいですが続くことはありません。
変えたい過去。 それは誰でも存在するだろう。 それを本当に変えられたらどんなにいいだろうと、誰もが思う。
「本当に、な」
黒い右目と蒼い左目を持つ不破恭也は、自らの部屋で陰鬱な声で呟いた。 助けたかった人がいた。 助けてと言った人がいた。 守りたかった人がいた。 守ってほしいと言った人がいた。 触れることも、見ることもできないのに、声だけが繋げてくれた絆。 身体も顔も知らず、それでも好きになった少女がいた。 声しか知らず、それでも愛した少女がいた。 見た目などどうでもいいと、彼女の心根と声を愛した。 二重の意味で永遠に一緒になれないとわかりながら、それでも『終わった時間』に『もういないはずの少女』に、想いを向けた。 その声が聞こえるだけで、幸せだったあのとき。 声だけで、己を支えてくれたあのとき。 その声が聞こえればば、どんなことでもできると信じていたあのとき。 だけど、もうその声は聞こえない。
「守れなかった……」
耳に残るのは、彼女の悪夢の声だけ。 悲鳴と、喘ぎ声と、呻き声と、死を願う絶望の声。 そして最後は…… 守れなかった。 守れるわけがなかった。 守りたいと願い、禁忌を犯して、眼を抉り出し、その眼窩に蒼い珠を入れ、守りにいくと、救いにいくと誓っても、至宝の珠はその願いを叶えてはくれなかった。
「リゼット……」
もう声を聞くことができない少女に、
「すまない……」
生涯何度目になるのかもわからない謝罪を呟いた。
古き眼が目指す『場所』
プロローグ
九月十七日
恭也は頭を振ることで、沈み込んだ心を断ち切り、立ち上がった。 彼の部屋には、八畳ほどであるはずが、ものがほとんどなく、それよりも広く見える。彼に趣味はなく、やることはただ剣を振ることだけ。 それだけしか彼にはできない。 もう救えない……いや、最初から救えるはずのなかった少女を亡くし、それでもこの左目にある蒼き目がある限り、可能性はあるのではないかと足掻き続ける毎日。 万の大群と戦う力が欲しいと。 万の大群から、彼女を守り、救う力が欲しいと。 そのためただただ身体と心を虐め抜く。 わかっているのだ。 そんな願いは叶わないと。 そんな自分を心配してくれている人が一人いるということは。
「これではまた心配させるだけだ」
これから学校に行くというのに、こうも精神が沈ませてどうする。 自らに嘆息し、恭也は部屋の隅に服を取り、着替え始めた。 すでに二年間着続け、三年目となる服。ネクタイつけることも毎朝続けているだけに、手慣れたものだ。 濃い赤のブレザー。薄い赤のネクタイ。黒よりも灰色に近いズボン。 虹陵館学園。ここ綾女ヶ丘にある最も大きい学園の制服がそれだった。
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Re: 短編など ( No.470 ) |
- 日時: 2011/04/29 19:31
- 名前: テン
恭也は洗面所でさらに支度を整えると、自分が住むマンションのリビングへと赴く。 ドアを開けると、いい匂いが漂ってきた。 恭也は、その匂いを吸い込むと、自分の腹が減っていることを自覚した。 それも当然と言えば当然。 学園から帰ればすぐさま鍛錬に向かい、夕食のあと少しだけ妹が寝るまで話をし、それが終わればまた鍛錬に出て、深夜の一時頃に帰宅して眠り、四時に起きて、また鍛錬に向かう。 心身とも疲れ果てる毎日。 そして、それだけ動けば腹も減る。 そんなことを続けて三年は経つというのに、今更自覚もないというものだ。 恭也は、キッチンの前に立つと、その中でいそいそと料理をしている妹を見る。
「おはよう……菊理」
朝の挨拶。 それを聞いて、彼の義妹……不破菊理が慌てて振り返った。 恭也が着る制服と同じ配色の制服を着た少女。 黒く長い髪。大きな目。小さな口。顔と雰囲気、それらが全体的にやや幼く見える少女だった。 菊理はあたふたと手を動かす。その様子は何かを捜しているようにも見える。 そんな菊理を見て、恭也は苦笑を浮かべた。
「構わない。スケッチブックはリビングだろう」 「…………」
恭也の言葉に、菊理は頷き、それから軽く頭を下げた。 身体を動かして、おはようと告げているのだ。
「ああ」
恭也もただ頷いて返した。 不破菊理は、声を出せない。失語症というやつだ。 そして何より、彼女は過去の記憶を持たない。 だが、そのことを気にした様子を見せず、強い娘だった。 彼女が恭也の義妹。 学年は一緒だが、一つ年下の大切な妹。 今の恭也の全て。
「いつもありがとう」
恭也が僅かに笑いながら感謝を告げると、菊理はブンブンと大きく首を振り、気にしないでと告げる。 彼女はこの家で全ての家事をしてくれている。そのことに恭也が感謝しない日はない。 何より、菊理がいてくれるからこそ、支えてくれるからこそ、恭也は今を生きていられるのではないかと思っている。 十一のときに父以外の一族の全ての人間が死に、その一年後に菊理が妹となり、それから半年後に父である士郎が死に、そしてさらにそのまた三年後に……好きだった少女を亡くした。 恭也のその一生は、別れだけに彩られていた。 だが、それでも菊理だけは居てくれたのだ。 ずっと、ずっと居てくれた。 そのことにどれだけ救われただろう。 自分が強くなることを切望しているのは、足掻くだけではなく、菊理だけでも守りたいから、という想いも確かにあったのだと教えてくれる。 4LDKの二人で暮らすには、大きすぎるこの家も、彼女が居てくれれば、それでも温かいものだった。
◇◇◇
恭也たちが住むマンションから虹陵館学園は、決して近いわけではないが、自転車で通うほど離れてはおらず、歩いていける距離。
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Re: 短編など ( No.471 ) |
- 日時: 2011/04/29 19:32
- 名前: テン
その道を二年間菊理と歩き続けた。 恭也は元々友人はほぼいない。それでいいとむしろ遠ざけていた。 菊理もまた恭也ほどではないが、友人が少ない方だ。一歩退いて見守っているような性格であるし、喋れないため、どうしても交友範囲は狭くなってしまう。 だからこそ、二人はいつも一緒に登校をするし、学園での食事もいつも共にしている。 そんな二人を兄妹なのに仲が良すぎると、下世話に兄妹でできているんじゃないかと、せせら笑う者もいた。 しかし、そんな声を上げる者はもういない。 恭也を恐れて、そんなことは言えなくなった。
「菊理、周りのやつに何か言われたりしていないか?」
静かな口調で問う恭也に、菊理は苦笑を浮かべ、胸元に抱いていたスケッチブックを持ち替え、それに慣れた様子でペンで文字を走らせる。 そして、それを恭也に掲げてみせた。
『大丈夫です。それに私はあまり気にしませんよ?』
筆談。 これが菊理の主な意志疎通の手段。 それにしても、兄に対してこのですます口調。 まあ、菊理は恭也に限らず、誰が相手でもいつも基本はこんな感じだ。恭也に対してば、たまに取れたりもするが。 それに手紙などでもよくあるが、何となく文章を書くと、自然と敬語になってしまうものだ。
「そうか。何かあったら俺に言え」 『暴力は駄目です』 「そんなことをした覚えはない」 『もう』
どんなに少ない言葉でも、菊理は書いてコミュニケーションを取る。このへんが彼女の良いところだろう。喋れないからと、それで人に関わるのをあきらめたりはしないという証明。 ちなみに、恭也は……少なくとも学園の生徒には……本当に暴力など振るったことはなかった。 昔、少し菊理とのことで、男子十数人と揉め、むしろあちらが攻撃をしかけてきた。その際誓って恭也は手を出していない。 十分間に渡って、その攻撃を延々に躱し、また同士討ちにさせただけだ。 それは菊理もわかっている。 実際、そのへんは結構な噂として流れたし、場所が校庭だったため、かなりの生徒がそれを見ていて、それだけ恭也が手を出していないという証人がいた。 そもそも本当に恭也が暴力など振るったら、素人が十人以上いようと一分ともたない。 そんなことは菊理がこの世で一番に知っている。 そして、菊理は知らないことだが、恭也は万の大群と戦うか、それをいなせる力を求めている。手を出さなかったとはいえ、素人十人程度に十分もかけたことの方が許せない。 このことが噂となり、この学園で恭也や菊理に何かしらを言ってくる者は最早いない。陰口を叩く者はいるかもしれないが。 そういう意味では、恭也と菊理は、この学園でそれなりの有名人だった。
『みんな言っていましたよ、兄さんは未来を見通せるって』
未来を見通せる。 十数人を相手に、その全ての攻撃を躱し、同士討ちにさせた。 どんな達人も、相手が素人でも三人同時に戦えば勝てない。 そう言われるているのに、漫画の主人公のように相手をした恭也。 未来が見えるから、そんなことも可能ではないのか、などという益にもならない噂が流れているのは、恭也も知っていた。
「そんなわけがなかろうに。菊理ではあるまいし」 『アブラクサスに、そんなことはできません』 「そうだったな。というか、この眼のことはお前も知っているだろう。いや、いい、少し急ごう。今日は出るのが遅かったから、時間がまずいかもしれん」 『わかりました』
早足になる二人。 だが、恭也は少しだけ速度を緩め、菊理のあとに続く。 頭にこびり付く菊理の言葉。
「未来を見通せる、か」
そんなものはない。 あるわけがない。 あるのはすでに決まった過去を見通せる……蒼い眼だけ。 この眼は、劫の眼のような力はなく、未来など視れはしない。 かつて聞こえた声すら聞こえなくなった欠陥品。 それも……恭也の願いを叶えられる可能性がありながら、叶えられないそんな眼だけだった。
◇◇◇
恭也のクラスは三年B組である。 しかし、これにはまあ物申したい所である。
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Re: 短編など ( No.472 ) |
- 日時: 2011/04/29 19:33
- 名前: テン
- なぜなら、
「…………」
隣りの席で黒板の文字をノートに書き写す菊理の姿があるからだ。 つまり菊理と同じクラス、隣りの席なのだ。 普通はありえない。 同じ学校に双子や年子で、兄弟が同じ学年という者たちを聞いたことはあるが、それらが同じクラスになるなど、聞いたことがなかった。 同じクラスに兄弟を揃えるのは、あまりよくない、という理由が多々あるのだ。 実際、これまで同じクラスになったことはなく、これが初めてのことだ。 しかし、それを覆し、菊理とは同じクラスである。 学園は何を考えているのやらと、当初は何度も思ったものであった。 まあ、今更の話だし、菊理は喜んでいたから、それはそれでいいのかもしれないが。 しかし、常に隣りに居られ、授業中まで見られるのは勘弁してほしいところだ。おちおち寝てもいられない。 とはいえ、そもそも恭也は授業中に寝ることはない。 菊理と共にいるとき以外は、全て鍛錬と勉強以外への知識の吸収に回している恭也は、学校で習うようなことの勉強などしている暇はない。 そうである以上、すべての勉強を授業ですませなければならない。 下手にテストの点数が下がりでもしたら、妹である菊理が周りに何を言われるか、わかったものではないからだ。
「ん?」
ふと視界に、菊理のノートの端が入ってきた。 そこには、
『今日、お買い物に付き合って欲しいです』
ふと視線だけを横に向けると、ニコニコといつも通りに菊理が笑っているのが見えた。 それを見ては、断る気にもならないし、元々断るつもりはない。 荷物持ち程度しなければならないだろう。 そのため、恭也は教壇にいる教師に気付かれないよう、小さく頷いた。 するとやはり菊理の笑顔がさらに深まったのがわかり、恭也も自然と微笑を浮かべたのであった。
放課後となり、買い物をすませ、恭也と菊理は夕暮れ深くなった、新綾女から綾女ヶ丘への帰り道を歩いていた。 夏を過ぎ、九月の半ばといえど、まだまだ太陽が沈むのは遅い。 冬になれば、学校の帰りに恭也たちが住む綾女ヶ丘から、開発が進み中心街と言えるようになった新綾女を往復すると、それだけで日が暮れてしまうだろう。 一駅分とはいえ、電車があるので、電車に乗ればいいとも思うが、菊理はあまり乗りたがらない。歩くのが好きであるらしい。 となると冬は買い物の度に着いていくことになるだろう。 暗い夜道を一人歩かせるわけにはいかない。 綾女ヶ丘でも十分に食料品などは整うのだが、少し贅沢をしたいとか、食品以外を買いたいとか、外食をしたい等の場合は、やはり新綾女に行かなければどうにもならない。 恭也の隣りで、小さな買い物袋を持って歩く菊理。 恭也はその数倍の重さはありそうな買い物袋を持っている。本当は菊理が持っている買い物袋も持ってやりたいところなのだが、習慣として一番小さな袋を菊理に持たせていた。菊理もまた手ぶらでは歩きたくないと思っている。 こんな時間が、恭也を支えてくれた。 縁者の全てが死に絶えて、愛しいと想った人を守るどころか、傍にもいけず、救えなかった彼に、最後に残った家族。 大切な、大切な人。 愛した人に勝るとも劣らないほどに大切な人。
「菊理」
夕日を見上げながら、ふと、菊理を呼ぶ。 彼女は、やはり笑って隣りを歩く恭也を見上げた。
「今度……」
――二人でどこか遠くに遊びに行こう。 ――家族として、兄妹として、楽しもう。 ――このごろは鍛錬ばかりで、あまりつきあえなかったからな。 ――きっと楽しくなる。 ――そうすればきっと、俺はもう彼女を諦められるから。 そう、告げようと思った。 しかしそのとき、
世界が罅割れ壊れた。
――バキバキと世界を犯すように…… ――バキバキと世界を浸食するように…… ――バキバキと世界を砕くとかのように…… ――バキバキと世界を殺そうとするように…… ――バキバキと世界を戻そうとでもするように……
壊れていく。 世界が壊れる。 世界が犯される。 世界が浸食させる。 世界が粉砕されている。 世界が惨殺されて殺される。 世界が元に戻っていこうとする。
――壊され、犯され、浸食され、粉砕され、殺され、戻っていく。
――犯されて、侵されて、冒されて……
それは陵辱だった。 世界が陵辱されていた。 陵辱されて、壊されて、犯されて、浸食されて、粉砕されて、殺されて、そうでありながら、戻されてまた最初から。 終わりのない陵辱行為。 意味もわからない光景でありながらも、恭也にはそれらが理解できた。 そしてそれは、終わらない陵辱は……
『戒律を冒され……だからこそ……もう私にはあなたしか……いなかった。 ……違いますよね………そんなのは……本当の……愛ではない……のですよね? 神に見放され……ようと……私は……あなたを……。 ……あなたの声が……聞きたい。そうであるなら……私は……どんな絶望でも……耐えられます。あなたが……守ってくれると……約束してくれた……だから……私は……いつまでも……。 ……………………でも……でも……でも……私が……冒されて……犯されて……穢されたから……もう……キョーヤ……様は……話しかけて……くれないの……ですか……?』
――犯され、冒され、侵された少女。 ――壊され、犯され、浸食され、砕かれ、殺され、それらを繰り返される少女。
彼女を思い出させた。
――違う!
最後に聞こえたあの声に、あらん限りの叫びで否定したあのとき。 左の眼球を抉り取り、無理矢理蒼い珠を眼窩に填め込んで、それでももう聞こえず、届かなかった言葉。 とうの昔に終わってしまったその時に、少しでも近づきたくて、彼女を助けたくて、大事だと思うこの心に、穢れなど関係ないと、彼女の信仰のために言うことなどできなかった言葉を……愛しているという言葉を告げたかった。 無限の陵辱に苦しみ、絶望する彼女を助けたかった。 だけど、そんなことはできない。 手が届かなかった。 遠すぎた。 声は届くのに、身体は届かない。 腕の一本でも届いてくれたなら、その手に握る剣で、彼女を救い出せたというのに。 腕すら届かず、手すら届かず、指すら届かない。届いていたはずの声さえ届かない。 眼窩に填めた珠に、言い伝え通りの力があるというのなら、その力を貸してくれと叫んだ。 だが、決して力など貸してはくれなかった。 いや、それまであった力すら奪われた。 助けを求めてきた彼女を救う方法を提示してはくれず、激痛を与えるだけで。 つまるところ、過去は……変えられないのだ。
「リゼット……!」
血が流れる。 濃く、絶望に彩られた赤が、恭也の左目から流れ出た。
「う、が、あ、っ……ああぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
袋を投げ出し、左眼をおさえる。 菊理のおかげで消えかけていた絶望が左目に灯った。 目の前の様子に驚きながらも、恭也の絶叫に菊理が、縋り付いてきたのがわかる。 そのとき……本当に世界が、ガラスが割れるように砕けた。 壊され続け、犯され続け、浸食され続け、砕かれ続け、殺され続け、世界は変質する。
「っ!?」
そして出来上がったのは……赤い、赤い世界だった。
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Re: 短編など ( No.473 ) |
- 日時: 2011/04/29 19:34
- 名前: テン
あとがき 短い。 キャッチコピーは、
その眼(アイ)が愛(アイ)を守る。
改変場所 基本的に恭也(とらハ3)にとっては最悪の世界を想像して改変。 御神のテロで、美沙斗と美由希を含めて死亡。 士郎は桃子と出会わず、なのはは存在しない。 しかし士郎が死ぬ時期も違い恭也は長く師を得たので、全ての技を体得済み。 全てをなくした結果として、膝の怪我はなく、強くなった。 菊理が記憶をなくした事件が早い。 抜粋するとこんな感じなのですが、さらに独自設定がかなり入っているので。 恭也もチート眼も持ち。アイオンじゃありませんが。恭也がチート眼もたないと、この話は成り立たちません。ほぼ使いませんけど。 ヒロイン候補は二人のつもりでした。どちらもわかるでしょうが、つまる所、駆はいるけど、リーゼロッテの相手はヴェラードしかいねーぜ! という人には注意な話でした。まあ、リーゼロッテは恭也を憎んでますが。むしろ恭也を殺すため生き続けていました。 まあ予告編のようなもので、続く予定はありません。美鈴と会うところまで書いてますが。 ちくしょう。リゼットかリーゼロッテの話を早く見たい。
|
Re: 短編など ( No.474 ) |
- 日時: 2012/12/22 13:46
- 名前: テン
まえがき これは感を取り戻すために書いたものの一つです。 山なし、谷なしとなっております。 時間稼ぎ投降。
変わらない兄妹
二十代半ばをこえると、生活における時間配分も随分と固定化してくる。 彼……高町恭也は、自分の家の庭先にある盆栽の一つに、剪定鋏を向けながらも、そんなことを思った。 夕暮れも迫るこの時刻、昨日も一昨日もその前も、そして今日も恭也は盆栽をいじっていた。すでにこの時間が、盆栽のためのものとなっていると言える。 朝昼は翠屋で働き、家に戻って趣味の盆栽と向き合う。 なんと平凡な生活か。 高校時代……とくに三年のときは、忙しさと修羅場ばかりであったが、今はそこまでのことはほとんどない。 護衛の仕事を続けているが、高町恭也がいるというだけで、抑止力となり、ほとんどの者が恭也の護衛対象者を狙うことなど諦める。仮に戦闘になったとしても、やはり恭也に傷を負わせるような者も、護衛対象者に害をなせる者も、今では皆無に等しい。 あるのは精神的な疲労ぐらいのものだ。
「……うむ」
盆栽の出来映えを見て、恭也は頷く。 概ね満足だ。それは盆栽のことだけでなく、今の生活自体に言えること。 恭也は、今の生活に満足していた。 剣の鍛錬をして、翠屋で働き、盆栽をいじり、護衛の仕事を受ける。そんな生活に満足感を覚えている。 もはやこの家には、恭也と桃子、そしてなのはしか住んでいない。 美由希は皆伝し、美沙斗のいる香港警防で働いている。今では何番隊だかの隊長である。とはいえ、膝が完治した恭也に勝てないと、いつも不満げだ。 フィアッセはイギリスに戻り、母ティオレの後を継いで、クリステラソングスクールの校長をしている。ボディガードとしての恭也のお得意様だ。 晶は体育大学に進み、今は一人暮らしをしている。いつかは教師になりたいらしい。空手は今でも続けており、敵なしと恐れられている。 レンも心臓の病気が完治して、一人暮らしを始めた。今は駅前の中国料理店で働いており、いつか自分の店を持つという夢を追っている。 それぞれがそれぞれの道を歩きだした。 その中で、恭也だけが変わらぬ道を歩いているが、彼自身はそのことに微塵も後悔はなかった。 この家から、母と妹以外がいなくなり、暫くして何人かの女性と付き合ったりもしたが、どの女性とも長く続くことはなかった。 大抵は、恭也がふられて終わっている。
「変えられないものだな」
その別れ文句を思いだし、思わず苦笑した。 恭也という男は、面白味のある人間でもなければ、そもそも人間味もない。いや、長い付き合いである者たちはそんなことはないと言うが、彼の人間味や面白味を理解するには、それなりの付き合いが必要なのだ。 面白味も人間味もなく、危ない仕事をしている男に、いつまでも好意を向けられる者など少ない。そのため大抵はそれらを理由に振られた。 恭也が家族を大事にしすぎることにも問題があった。彼女としては、自分を一番に想ってほしいと考えるのは当然のこと。しかし、恭也はそれよりも家族を優先してしまうことが多かったのだ。 それらの部分は、恭也にとってある意味根幹であり、変えられるものではなかった。だからこそその別れ話に文句を言うことなどない。仕方がない。それで終わりだ。 最後に女性と付き合ったのは、もう二年も前の話。今では独り身の方が楽ではないかという考えまである。 もっとも母である桃子は、早く結婚して孫を抱かせてほしい……美由希となのはどころか、他の娘たちまで、今現在恋人、または夫と呼べるような男はいない……と嘆いているのだが。
「む……」
そんなふうに昔を懐かしむのとは違うが、現状と過去を振り返っていると、一つの気配が足早な様子で、この家へと近付いてきた。 しかし、警戒することはない。その気配は恭也にとって感じ慣れたものだ。十数年、傍にあったもの。
「ただいまぁ!」
少しばかり間延びした声が聞こえ、続いて小走りで廊下を駆ける音が響く。 そして、縁側から顔を出す少女。
「ただいま、おにーちゃん!」 「ああ、お帰り……なのは」
妹のなのはに、満面の笑みで帰宅の挨拶をされ、恭也も盆栽から視線を離すと、昔よりも自然と浮かべられるようになった微笑を彼女に向けた。 サイドにまとめた髪を揺らし、満面の笑み浮かべるなのはは、身内の贔屓目を抜かしたとしても可愛らしい。高等部へと進学したが、これが女子校でなければ、この笑み一つで男を惚れさせ、その多くを虜にしたかもしれない。 最近頓に翠屋の男性客が増え始めた……もしくはフィアッセたちが働いていた頃に戻り始めたのは……原因には、なのはの存在もあるのだろう。
「早く着替えてこい。制服に皺ができるぞ?」 「わかってるよー」
何が楽しいのか、ニコニコと笑いながらも頷き、なのはは自分の部屋へと戻っていく。 そんななのはの背中を見送り、恭也もまた笑みを浮かべた。 これもまた変わらない日常。 学校から帰るなのはを庭で迎える。いつの頃から日常となった一幕。 部活をしていないなのはの帰宅時間は、ほぼ一定。たまには友人と帰りに寄り道でもしてきたらどうだと聞いても、そういうのは休日で十分という返答があった。 また彼氏もいないという現役の女子高生にしては、寂しい学生生活を送っているのではないかと、恭也は少しばかり心配している。 彼氏ができたらできたで、心配はするだろうし、思うところはあるのだが、しかしなのはが男と付き合うことを否定したり、駄目だと言ったりする気は恭也にはなかった。それはなのはが決めることであり、またなのはが幸せになれるのなら反対する理由がない。
「うむ」
考え事をしながらも、手はきっちりと動いていたようで、目の前にある盆栽の不必要な枝と葉が切られ、先ほどよりも見栄えがよくなっていた。
「こんなものか」
今日の所はこのぐらいでいいだろう。他の盆栽は、また明日以降に手入れをすればいい。
「おにーちゃん、お茶持ってきたよ」 「む、すまない」
いつの間にか……気配で部屋からキッチンに行っていたのには気付いていたが……私服に着替えたなのはが、お盆に二つの湯飲みとお茶請けの煎餅を乗せ、再び縁側に現れたのを見て、恭也は礼を言いながらも縁側に腰掛ける。 なのはもまた、恭也の隣に腰掛けると彼に湯飲みを渡し、自分の分も取った。
「ふう」
同時に一口飲み、また同時に一息を吐いてしまうと、何が楽しいのかなのははクスクスと笑った。 それを見て、恭也もまた軽く笑う。
「ああ、お前の方のも水はやっておいた」 「あ、そうなんだ。ありがとう」 「いや」
二人はそんな言葉を交わし、同時に盆栽の隣に咲く花々を眺めた。 美由希が趣味の一つとしていたガーデニング。美由希がこの家を出て、その世話役はなのはに移り、また彼女自身、ガーデニングが趣味になり、今では花壇が増え始めていた。
「次の休みの日は、虫がいないか調べて、あと次の季節に咲く花の種を買ってこようかなぁ」 「たまには男と出かけたりはしないのか? かなり寂しい青春だな」 「おにーちゃんには言われたくないよぉ。学生時代もそうだけど、もう二年ぐらい誰とも付き合ってないでしょ?」 「それもそうか」
自分の学生時代も人のことが言えるようなものではなかったと、恭也は頷く。とはいえ、別の意味で忙しく、また修羅場の多い学生時代であったようにも思う。 今に関しても、人のことは言えない状況だ。
「結局のところ、クロノとはどうなったんだ?」
子供の頃、クロノという少年と心を通わせているように見えたなのは。都合により、生まれ故郷に帰って……恐らく外国などよりも遠い場所に行ったのだろうというのは、恭也も何となくわかっている……しまった彼を待っている。 そう思っていたのだが、ここ最近は違うのではないかと考えていた。 確かに数年は、クロノを待っているようにも見えたが、今のなのはにはその様子があまり見えない。
「んー? 前に一度会ったよ?」
唐突な質問であったにも関わらず、なのはは気にせず一口お茶を含むと、あっさりと言った。
「そうなのか?」 「うん。でもやっぱり子供のときみたいにはいかないかな? 私はもうあのときの想いを思い出すことはできなくなってたし、たぶんクロノ君もそうだったと思う。私以外に好きな人ができた、みたいな雰囲気もあったしね」 「いつまでも純粋なままではいられない、か?」 「たぶん、そういうことなんだと思う。もしくは少しは大人になったのかも」
子供のままではいられない。子供の頃の想いを持ち続けることも難しく、持ち続けることさえ残酷なことなのかもしれないし、もしくは持ち続けられる方がおかしいのかもしれない。
「だから友達として再会を喜んで、いつかまた会おう、って別れたよ。お互い義務感みたいな再会だったのかも」 「いつのことだ?」 「結構最近かな」
詳しく聞けば、本当にごく最近のこと。 その前後で、なのはの気持ちが沈んでいた様子はなかった。つまりは彼女自身が言うように、本当に思い出となっていたのだろう。
「十年傍にいないのは、やっぱり無理があるよね?」 「まあ、俺がクロノの立場でも、無理だな」
どうしたって想いというのは薄れてしまう。永遠の想いはある、と言えるほど恭也はロマンティストではなかった。 何より傍にいなかったというのがある。ある程度成長し、丁度今のなのは程度の歳に出会っていて、それからの十年なら……それでも難しいとは思うが……ともかく、最も多感で、最も成長する時期に傍にいない。これは致命的だろう。 なのははこの十年で多くを学んだ。それはクロノもまた同じはず。恭也が感じたこの十年と、二人の十年は密度が違いすぎる。そんな二人にとって十年という時は長すぎた。 また二人が共にあったのは、一ヶ月にも満たない。その百数十倍の月日の流れは、幼いときの一時の感情と想いなど容易く飲み込む。 そんな気持ちを持ち続けるのは、やはりお互いに残酷であるし、持ち続けられる方が狂っている。再会して意識した、というのとは、まるで違うのだ。
「まあ、二人が納得しているのなら、俺からはとくに言うことはないがな」 「むしろすっきりしたかな。クロノ君を理由にして、色々なことを考えないようにしていたところもあったし、思い出のクロノ君に逃げてた所もあったと思うから」 「ふむ、なるほど」
少なくともクロノとの出会いがあったから、なのはは成長できたし、また逆に重石になっていた部分もあったのだろう。幼い頃の人間関係というのは、多かれ少なかれそんなものだ。
「初恋はいい思い出になった、ということか?」 「おにーちゃんの口から初恋っていう単語が出ると、凄く変な気がする」 「……自覚はある。が、俺とて初恋ぐらいはあったぞ?」 「誰?」 「フィアッセだ。まあ、色々とありすぎて、今ではやはり姉としてしか見れなくなっているがな」
フィアッセの気持ちに気付いていながら、未だ応えることができないのだから、それが答えなのだろうと、恭也は内心で苦笑する。 今まで付き合ってきた女性たちと長続きしなかったのは、フィアッセへの気持ちが複雑すぎたのもあったはずだ。言ってしまえば、後ろめたさ。それがフィアッセに対してか、付き合っていた女性に対してかはわからないが。 だからこそ、なのはが言うクロノを理由に、もしくは逃げる場所にしていたという気持ちもよくわかる。
「私の場合は、やっぱりいい思い出って思わないとやっていられない、っていうのもあるよ。もしくは無駄だったとは思いたくない、かな?」 「まあ、無駄とするなら、それまでの時間に価値がないとするのに近いからな」 「うん」
一人の人間を思ってきた時間が無価値だった。誰だってそうは思いたくはないだろう。
「しかし、まあ、十年あれば人は変わる」 「そうだね」 「俺もこの十年で弱くなったのだろうな」 「うそだー。それは嘘だよ」
なのはは、わざわざ二度言ってまで恭也の言葉を否定した。
「おねーちゃんはまだおにーちゃんに敵わないって言ってるし、美沙斗さんなんかもうずっと前からおにーちゃんには敵わないって言ってたよ」 「あの二人はなのはに何を言っているんだ」 「悔しいからぼやいちゃうんじゃない?」
もしくは愚痴か。 どちらにしても、そんなものを吐ける相手は、恭也の強さを知る共通の知人しかいないのだろう。まあ、なのはは知っているとは言い難いが、二人にとっては家族であり、恭也を良く知る人物だからこそ、愚痴ってしまうのかもしれない。
「別に戦う力のことを言っているわけではないさ。決断力等は昔と比べれば弱くなっているという自覚がある」 「それはどうして?」 「……今が大切だからだろう。もしくは変わることを恐れているのだろうさ」
恭也は、お茶を飲み込み、一つ息を吐く。 昔ならば、簡単に『今』を捨てられた。今と未来を天秤にかけて、一切迷うこともなく、今を捨てて……自分のではなく、誰かの……未来を選び取れたのだ。 だが、今はそれができそうもない。 心のどこかで、変わることを恐れ、見えない未来よりも、今を選ぶ。 なのははそれを聞き、湯飲みを置く。
「そっかぁ」
ある種、兄の弱音に近い言葉を聞きながら、なのはに気にした様子は見えなかった。
「でも、うん、なんか、わかるかなぁ」
そして、同意を示すのだが、それを聞いて、恭也は思わず半眼となってなのはを見つめる。
「いや、まだ高校生のお前がわかるのは、それはそれで問題なのだが?」 「だって、何となくわかるんだもん。変わるのは……恐いよ」
心底恐怖を抱いたかのように、なのはは肩を軽く震わせ、眉を寄せた。
「…………」
それを見て、なるほど、と恭也は内心で頷く。 恭也の言うように、本来まだ高校生であるなのはが、わかっていいことではないし、大人と子供の中間とも言える年齢で、恭也の言う弱さは、本来理解できるものでもない。 未来に希望を持ちながらも、未来に不安を感じる年頃。もちろん恐怖だって覚える年頃でもあるだろう。しかし、恭也が言うそれとは本来ベクトルが異なる。 どちらにしろ向かう目線は未来なのだ。これは本人自身もそうだし、親兄弟も当事者に未来へと目を向けさせる。だからこそ、今を未来に繋がる道として捉える……もしくは捉えさせられる……年頃。 そんななのはが、恭也の言うことを多少なりとも理解できるのは、変わることが恐いという根底に、やはりクロノがいたからなのだろう。 変わってはいけない想い。そんなものを数年持ち続けたなのはは、ある種の潔癖性であったと言っていい。 他の男を好きになってはいけない。それこそ他の男と仲良くすることさえ、クロノへの裏切りであり、冒涜とした。潔癖なまでに他の男を避けるしかなかった。 またそれをしてしまえば、自分は汚れるのだという思春期特有の精神的な汚れに対する潔癖も相乗されたことだろう。 それらはつまり、変わることを禁忌としたに等しく、同時に変わることを……クロノへの想いを風化させることを恐れていたのだろう。 そして今のなのはには、事実として変わってしまい、『待てなかった』という負い目があり、『待っていてくれなかった』という異性への諦念が、彼女の中にはあるはずだ。
(もっと早く気付くべきだったのかもしれないな)
クロノへの想いが間違いだったなど、恭也も言わないし、なのは自身にも、他の人間にも言わせたくはない。しかし、今のなのはを見れば、足枷であったことも事実だった。 クロノが常に傍にいたならば、また違ったのだろうが、それこそないものねだりであるし、詮無いことであり、クロノ本人こそ、当時はなのはと離れる自分に思うところがあっただろう。当時二人は子供だったのだから、それを責められない。 しかし、それらがあるからこそ、なのははクロノへの想いに区切りをつけた今でも、変わることを恐れている。 それにもっと早く気付いてやるべきだったかもしれない。
(最近は、シスコンだと言われなくなってきていたのだがなぁ)
よく美由希などにシスコンだなどと言われていた恭也であったが、クロノとのことがあってから、その頻度も減った。ある程度大人としてなのはを扱うようになり、それが周囲からは妹離れ、娘離れに見えたらしい。無論、仲の良い兄妹であることは変わらなかったが。 しかしここ最近は、なのはの方が重度のブラコンである……元々その気は多分にあったのだが……と言われるようになっていた。 これを恭也は、この家に自分と母しかいなくなったことで、周囲からなのはが常に自分といるように見られるためだと考えていたのだ。 だが、どうやら本当になのはは、昔以上に恭也との関係を深めたい、もしくは縮めたいと無意識に考えているのかもしれない。そうでなくとも、恭也の傍にいることこそ、安心できる時間であると考えているのは間違いない。
「変わるのは恐い、か」 「うん。恐いよ」
変わらない関係。 その典型と言えるのは親子であり……兄弟。 無論、世の中にはお互い憎しみ合うような親子や兄弟も存在するし、お互い無関心な家族というのもいる。そんなのを恭也は腐るほど見てきたし、恭也自身が、産みの母親に対しては何の感慨もない人間だ。 なのはも多少は大人になって、そのぐらいは理解しているだろうが、恭也との関係に冷めたものは元よりなかったのだ。恭也の立場が、兄でありながら、父親であることと、なのはには、その父親である恭也に対して反抗期というものがなかったのも、拍車をかけている。 それらに、恭也も今更ながら気が付いた。 もしかしたら、帰りが早いのも無意識に恭也の傍にいる時間を増やしたいがためかもしれない。 つまりなのはにとっての恭也とは、もっとも安心できる時間で、変わらなくてもいい安息の場所なのだ。ある種、恭也に……もしくは最も近い家族に……依存していると言ってもいい。 人は多かれ少なかれ家族に依存するものだが、なのはのそれは方向性が違ければ、その依存度も違う。
「どうしたものか……」
恭也はぼやくように、だが隣にいるなのはに聞こえないように呟く。 これは少々まずい。 このままいくと、なのはは将来的に男と付き合えない可能性が高いような気がする。なにをするにも、恭也や家族を優先しかねないし、この家から出ていくこと自体嫌がるだろう。仮に彼氏なりができたとしても、そんななのはに男の方が耐えられまい。 つまる所、今まで恭也がふられてきた理由に近い。 もしくは、そもそもすでに恋という感情が死んでいる可能性もある。
(難しいな)
かといって突き放すわけにもいかないのだ。というよりも、突き放す気など欠片ほどもないのだが。
「………………まあ、いいか」
恭也が出した結論はそんなものだった。聞いた人間がいたならば、つんのめってしまいそうな結論。 何を言ったところで、何も変わらないのはわかっている。なぜなら恭也自身が変えられない部分と似通う。だというのに、何を言っても説得力がないというものだ。 一番いい方法は、恭也がとっとと結婚でもするか、この家を出ていくかだが、そもそも相手がいない以上は結婚などできない。この家を出ていく積極的な理由もやはりなかった。というよりも、今のなのはは、理由もなく恭也が家を出ようものなら、無理矢理ついてきそうだった。 このまま家族三人で暮らし続けるのもいいだろう。 その中で、なのはが変わることを恐れなくなるのを待つ……
(……よけいに、嫁にいき遅れそうだな)
恭也は、思わず引きつった笑みを浮かべてしまう。 引きつったまま、恭也は茶請けの煎餅をかみ砕く。 そんな恭也を、なのはは小首を傾げて見つめていた。その姿は小動物じみていて、兄の恭也から見ても、可愛らしい所作であった。それを他の男にも見せればと思わずにはいられない。
「どうしたの?」 「いや……俺たちは、いつまでこうして、この家の縁側で共に茶を飲めるのか、と思っただけだ」
もしくは飲めて『しまう』のか。 その言葉に含まれた恭也のそんな複雑な考えに気付くわけもなく、なのはは太陽のような笑顔で言った。
「『ずっと』、だよ?」 「…………」
それを一切疑っていないというような純粋な笑顔。 だからこそ、それがどこまでも自然に出たということがわかるし、本当に疑っていないというのが理解できてしまった。 ある意味危惧したとおりの感情をなのはから確実に感じ取り、恭也は再びひきつった顔を出さないようにするので精一杯である。 しかし、
(まあ、人の幸せなど千差万別か)
それがなのはの幸福だというのなら、
「そうだな」
恭也はただ受け入れるだけだ。 なのはが、再び……本当の意味で男を好きになれるそのときが来るのか、それともなのは自身の言うとおり、そんなときは『ずっと』来ないのかは恭也にもわからない。 だが、どちらでもいい。
「お前とずっと共にいるのも、いいかもしれないな」 「むぅ、その言い方だとおにーちゃんは不満みたい」 「不満などありはせんよ。そんな未来もありかもしれないな、と思っただけだ」
変わらない関係。 変わらない生活。 そのどちらも恭也としては望むところ。
「そうだな。ずっと一緒にいよう」
ある種、プロポーズじみた言葉であったが、恭也は気付かない。 なのはもそれに気付かず、しかし再び満面の笑みを浮かべた。
「うん!」
変化を続ける今というとき。その中でも変わらないものがあってもいいように、変わらない兄妹がいても構うまい。 なのはの笑顔を見て、恭也はただそんなことを思い、少しばかり温くなったお茶を口に含んだのだった。
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Re: 短編など ( No.475 ) |
- 日時: 2012/12/22 13:47
- 名前: テン
あとがく
ほのシリというか、何というか。 時間と想いというものに対する話でした。 なのはと桃子エンドにいってしまった恭也と、クロノエンドから恭也エンドにいってしまったなのはという、兄妹エンドに到達してしまった二人の話です。 これがある意味、もっともリアルな結末なような気がします。
私的には、恭也は性格、思想上、とらハの登場人物以外とは長く続きそうにもないです。忍とか那美でも、原作のように事件でも起きなければ最終的には別れそうな気がしてなりません。でも、恭也は自分の性格と思想を把握しているから、じゃあ仕方ないと、納得して別れるという。恭也を受け入れられそうなのは、フィアッセと桃子ぐらいなんじゃないかと。 なのはもクロノを待てなかった時点で、結婚とか無理になりそうですし、普通に考えれば待てない。待てば待った時間の分だけ歪みそうです。理由はこの作品。私自身としては、純愛というのは一つ間違えれば、……その立場になったら……地獄だと思っております。クロなのはその典型。お互い子供なのがまずすぎます。
まあ、この話の設定……私が恭なの好きだからではなく……だと、そのうち禁断の関係兼爛れた関係になりそうですけど。ただし異性として好きだからではなく、他に相手がいないから。仮になのはが他の男と付き合ってもすぐさま別れそうです。そして両者ともいき遅れ。 今までの話と違って、別段お互いを異性として見ているわけではなく、なのはは依存の対象として恭也を見ていて、恭也はまあいいか、とそれを受け入れている状態です。ある意味、今までの恭なのもの以上になんだかなあという関係。
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Re: 短編など ( No.476 ) |
- 日時: 2015/02/23 08:35
- 名前: テン
感を取り戻すための作品その三。 そのためそのうち消す可能性もありです。消さない可能性もありますが。 この作品は、私の全作品(未発表、配布含む)の設定、オリキャラが混在しています。またとらハ要素も低いです。ご注意ください。 また完璧な恭也最強もの。
可能性とは毒である。 無限の未来、その先に待つものが一つとは限らず、しかしたどり着けるかもわからない未来の可能性たち。 仮にその無限の未来を……いや、過去さえも覗けてしまえたのなら。 己のあり得るかもしれない、もしくはあり得たかもしれない可能性の全てを視ることができたなら。 そんなことは不可能な夢物語。 しかし、これはそんな不可能を可能としてしまった者たちの夢物語。 これは魔女の戯れにより、可能性という毒を呷らされ、その道を歪められながらも、ある一つのことに執着し、妄信し、渇望し、求める者たちによる狂気の物語である。
世界を視る者達(前編)
日本にある地方都市のあるマンションのある一室。 飾り気は少なく、カレンダー一つさえもないリビング。しかしながら生活用品や家具だけは、やたら大きく立派なものがそろえられていた。 大人六人は座れそうな大きなソファの端、そこに一人の少女が本に目を通している。 一四〇センチ半ばほどしかないであろう小柄な体躯。紅みがかった長い髪。日本という地には似つかわしくない血のようにも、炎のように見える紅いドレスを纏っていた。 その小柄さ、幼げな顔つきから、年の頃は十代前半にも見えるが、しかしその雰囲気からは妖艶ささえも感じ取れ、それだけで外見からうかがえる年齢が五つは上がってしまいそうだ。 ふと少女が顔を上げ、本から視線を離す。 すると同時に、玄関より扉が開く音がした。 そして、暫くするとリビングのドアが開き、一人の人物が入ってくる。
「やっぱりあなたが一番に帰ってきたわね」 「事前に話していたように、さして苦労をするような相手ではなかったからな」
少女が唇の端を吊り上げ、どこか勝気な笑みを浮かべて言うと、その人物は表情筋がないのではないかと突っ込みたくなるような無表情、無感情の顔、さらに平坦な声で言葉を返した。 入ってきたのは青年。一八〇前後と平均よりやや上の身長に、細身ながら首が太く、服の上からでもがっちりとした肉体が窺える。 適当に揃えられた髪から、そういったことには頓着しない人間とわかるが、その顔は整っており、美形と言い切ってしまって間違いはない。しかし、着ているものは全身真っ黒であり、感情の色がその顔に見えず、威圧感の方が強く感じ取れてしまう。
「あら、この世界の草壁には満足できない? ええと、この”世界の草壁”は確か刀術ではないのよね?」 「霊術だ。”紅い夜”のところと比べるならば、刀術は天威になっている」 「そうだったわね。あの娘が刀術も使うからごっちゃになってるみたい、というか永全不動じゃない草壁とも混じってる気がするわ」 「原因がほざくな」
青年は一つを呆れたように息を吐くと、少女から少し離れてソファに座った。 それから視線だけを少女に向け、再び口を開く。
「他の連中から連絡は?」 「なし。まあ、でもそろそろ終わっているころじゃないかしら? あなたの言うとおり、この世界の永全不動では彼らを止めることはできないわ。ああ、”だからこそ鍛えなおす”ため、だったのね」 「違う。世界の広さを教えてやるだけだ」
そこで初めて青年の顔に感情が浮かぶ。 それは僅かな怒りと苛立ち。 元々が無表情、無感情であるからこそ、唐突に浮かんだそれはある意味ではわかりやすいものであった。
「本当にあれが数多の世界で最強を誇り、畏怖された永全不動か?」 「単純にあなたが強くなりすぎただけでしょう。正直、超人という言葉はあなたのためにあるものだと思っていたわ」 「そんなわけがあるか。俺はまだまだ弱い。それは俺が一番わかっている。その俺程度に、俺一人に潰されるなど話にもならん」
もはやその苛立ちを隠さず、青年は鼻を鳴らす。 そして肩を広げ、背もたれに両腕を乗せ、苛立ちを打ち消すように目を瞑った。 そんな青年を見て、少女はくつくつと笑う。
「永全不動も不運ねぇ、今更あなたたちに目をつけられるなんて」 「どちらにしろ、いずれは戦うつもりだった。ただここまで平和ボケしているとは思っていなかっただけだ」
少女はソファの肘掛へと、その役割通りに肘に置くと、頬杖をついた。
「彼らも潰してきたならば、あとは四派。あなたは予定通りにあそこに行くのかしら?」
そんな問いかけを聞き、青年は目を開ける。そして、唇の端を吊り上げた。
「ああ。御神に行く。すでに宣戦布告はしておいたし、久々に”実家”に帰ってみるさ」
それは見る者に怖気を感じさせる恐ろしい笑みであった。
◇◇◇
永全不動八門。 八種の武術の総称。 それはある主の伝説であり、忌み名であり、恐怖の対象であった。 ここ最近、地下に潜り、派手に動かなくなった今現在でも、それは変わらない。 その永全不動八門の一派の一つ、御神真刀流。 御神真刀流の武術を長年伝える集団であると同時に、御神家を宗家頂点として、その下に不破の分家筆頭を置き、複数の分家で形作る旧い家である。
「っ……」
その現在御神家当主、御神静馬の娘、次期当主筆頭候補である御神美由希は、大きく息をのんだ。 いや、周囲に二十数名の者が、同じ行動を、まったく同じタイミングでしている。 御神家の定例会議。御神本家の数十畳ある広間で、御神本家、全ての分家から幾人かが集まり、三ヶ月に一度ほどの間隔で行われるそれ。 最近は地下に潜り、あまり目立つ行動をしていない御神家であったため、さして重要なものでなくなって久しい。ここ最近は何かもう井戸端会議か、宴会のために集まる名目になっていた。 次期当主候補であり、高校も卒業し、そろそろ本格的に当主として学ぶべきという建前の元、ここ最近はその場でお酌をさせられていた美由希としては、まだ幼い妹か従姉妹でも無理やりにでも連れてきたい面倒な集まりである。 しかし、今回は始まりからしていつもと違っていた。 上座に座っていた美由希の父、御神静馬はいつになく真剣な表情を浮かべ、その横にいた不破家当主不破一臣は眉間に皺を寄せている。 何より、一臣と対角の場には御神流最強と呼ばれる不破士郎の存在があった。 強いが、しかし自由な男である不破士郎は、こういう集まりを嫌い、大抵出てこない。十年以上に前に高町桃子と結婚し、放浪癖こそなりを潜めたものの、そう言ったところは変わらない男であったのだが、今回は静馬と一臣とともにこの場に現れたのである。 それだけで今日ばかりは井戸端会議にも、宴会にもならないことを、その場にいた誰も悟った。 そして、事実として静馬の口から放たれた言葉は、その場にいた全員の度肝を抜き、言葉を奪う。
「ご当主、もう一度……もう一度お願い致します」
その中で美由希と同年齢であり、この中では若年組みに入りながらも、五守剣の内に在る分家の藤宮家の女性、藤堂茜が喉を震わせながら静馬に問い返した。 それを聞き、当然かとばかりに静馬は大きく息を吐き出す。
「先日、永全不動八門のうち、四門、四派、四流……つまり半分が、外部からの襲撃に合い、事実上の壊滅状態に陥った」
そうして返ってきた言葉は、先ほどとまるで同じであった。 先ほどとは違い、そこらから『馬鹿な』やら『ありえない』やらの言葉が響く。 美由希としても全くの同感である。 美由希は特に、幼い頃から御神本家の娘として、また当主候補としてあり、静馬や一臣に次いで他の七門と多く交流を持っていた。その中で手合わせをしたこともあったし、見ただけで強いとわかる者も多数存在していたのである。 御神流の剣士の自負として簡単に負けるとは絶対に言いたくはないが、しかしまだ年若い美由希では事実として勝てない者は多くいたし、他七門の全てが、その流儀も御神に勝ることなくとも負けてもいなかった。 誇張なく、全てが手を組めば、国すら落とすと言われ、銃器蔓延るこの現代社会において、肉体のみでそれに打ち勝つ超人たち。 そのうちの半分が壊滅。 いったいどうすればそんなことが可能なのか。
「不幸中の幸いと言っていいかわからないけど、重軽傷者多数ながら死者はなし」
そう付け加えたのは、一臣である。 同時に少しばかり空気が弛緩し、ほっとした空気が流れた。 しかしそんな中、士郎がどこか疲れたように目を瞑り、苦虫をかみ締めたかのように口を歪める。
「どこが不幸中の幸いだっつーんだよ。つまり”手加減されたのに”壊滅させられたってことだろうが」
その容赦のない、だが同時に事実を端的に示す言葉に、またも全員が息をのんだ。 世の中において、殺人とは最悪の犯罪の一つである。しかし、この業界において、それはある種当然の行為。それが封じられるだけで、手が幾つも封じられるに等しい。 多くの負傷者を出しながら、死人が一人もいない。つまりは死人が出ないように手加減されたのだ。 永全不動を相手に手加減する余裕のある化け物である。 それを想像し、そこにいた年若い者たちは唾を飲み込んだ。
「襲撃したのはどこかわかっているのかしら?」
そう聞いたのは、不破美影。士郎と一臣、美沙斗の母であり、美由希にとっても祖母にあたる人物。すでに還暦間際か、超えているはずであるが、どう見ても外見はいいところ三十路を超えた程度、化粧次第では二十代後半と言っても通用しそうな美魔女を超えた女傑である。
「……セカイと名乗ったそうです」 「セカイ……」
返ってきた答えに、美由希は思わず繰り返す。 裏に関わりがあれば、大抵の者が聞いたことがある名前だろう。 十年と少し前に突如として台頭した集団の名前。 セカイ。 戦闘集団にして、犯罪集団。彼らに潰された組織は数知れず。最近ではあの香港警防ですら手を焼いた龍を下部組織に至るまで、徹底的に滅ぼし、ついには最強集団とまで言われるようになった。 セカイという響きからわかる通りに、その構成員の大半が日系人であるという。しかしながらわかるのはそれだけで、正確な構成人数から、行動理念までまるで不明であり、正体すら不明の集団であった。わかるのはメンバーの通り名程度である。 今回、死者が出ていないように、特別殺しを前面に出した……殺すことを重要視していないだけで死者は多数出ているが……集団ではない。当然ながら彼らと戦いながら、負けはしても生き残った者は多数いる。しかしながら、それらの人間は皆一様に、どういうわけかセカイのメンバーについて口を噤むのだ。
「で、今回もなぜか襲撃されたところは正確には教えてくれなかった」 「根本的な話ですが、襲撃されたのはどこですか?」 「海堂、八雲、志摩、そして草壁だ」
静馬の口より紡がれる名前。そのうち真っ先に出た海堂という苗字に、すでに隠居した先代御神家当主……つまり、美由希の祖父にあたる御神弦馬が渋面をつくる。
「海堂がやられたのは痛いな」
海堂流。とくに秀でるのは乱破術。 海堂弧月流・乱破術。 乱破とは、現代で言う忍者。つまり彼らは忍術を現代に伝える家系であった。永全不動の中でも、戦闘より諜報を請け負う家系でもある。
「不破で変わりはできるか?」
全員の視線が、一臣に向いた。 海堂が永全不動の諜報員とすれば、不破は御神の諜報員。その技能は海堂に勝るとも劣らない。
「僕か兄さん、他にもできなくはないけど、今の不破では海堂ほど組織的にやることは無理だね」
不破は、動ける人間は今現在ではそう多くない。前不破家当主は亡くなっているし、不破に嫁いだ琴音はあくまで嫁いだだけで、不破かと言われれば違う。一臣と琴絵の子供はまだ実戦レベルとは言いがたいし、士郎の子供はそもそも御神の剣士ではない。美影は実戦……少なくとも諜報戦からは……から離れて久しい。 技術は負けていないが、御神と同規模かそれ以上の人員で諜報行為ができる海堂とでは組織力が違いすぎた。
「一応、千歳たちに頼むこともできるけど、正直この状況なら彼女たちを不破家からは離したくないわ」
お茶を一口啜り、美影が言うと、ほかの者たちの眉を寄せる。 こんなときに何を言いたいのだろうが、彼らが不破に不信感を抱いているように、不破もまた他の分家に不信感を抱いているのは、暗黙の了解のような状態だ。
「何にしろ、今俺たちがここから離れるわけにはいかんだろう。いつここに来るかわからんぞ。仮に千歳たちをうちから離すって言うなら、俺たちは不破に付きっ切りになる。そうでなくとも千歳たちを動かすとすれば陣頭指揮はせにゃならんから、結局俺と一臣のどちらかは動けなくなる。さすがにまだ早苗には任せられん」
士郎の言ももっともである。 セカイが何のために海堂家などを潰したのかはわからないが、その目的は永全不動全体である可能性が高い。つまりいつ襲撃をかけてくるかわからない状態で、士郎と一臣の両方どころか、片方でも欠けられるのは痛かった。 とくに士郎に関しては、御神家最強の男。この男がいるかいないかで、士気にも関わる。一臣とて確実に五指には入る腕前だ。
――せめてもう一人実戦レベル、かつ指揮のとれる不破がいたならば……
その場にいる誰もがそう思い、また誰もがその脳裏に一つの名が浮かぶ。 十年以上前、両腕のない数体の惨殺死体を残し、御神家より失踪した人物。 次期不破家の当主候補であり、士郎の息子であり、一臣の甥であり、美影の孫であり、美由希の従兄弟であった男。 不破恭也。 美由希でも、もはや名前を覚えている程度の遠い存在になったしまった人物。 努力家で秀才ではあったが、父である士郎や親類である一臣など大天才と呼ばれる者たちの才能は受け継いでいなかったという。また彼の同年代には、今では五守剣となった真中明弘と荒原友紀都などを筆頭に、士郎たちには及ばずとも、才能溢れる者、天才と呼ばれるに相応しい者が分家にも多く、その年代で目立つ存在ではなかった。 士郎の放浪癖に巻き込まれ、御神家や他の分家とも極端に関わることが少なかった人物で、失踪理由も含めて謎が多い人物、というのが彼をよく知らない者たちの共通見解であろう。どちらかと言えば、突然失踪したこと、生まれがよくわからないことで、余計な詮索を生み、当時も今も悪い噂の方が多い。 事実今も、嫌悪感を表情に出す者がかなりいる。今現在の御神全体の構成人数は、楽に三百を超えるが、大半が似たようものだろう。 しかし美由希は、御神の次期当主候補として、二つだけ彼について知っていることがあった。 不破恭也は、御神家や他分家を全て”救った”後に失踪した。 ふと士郎、一臣、静馬、弦馬の順で見ると、四人ともが顔を歪めている。 そんな不破恭也の名をこんなふうに貶めてしまったのは、この四人も無関係ではない。そのことに思うところがあるのだろう。御神本家の人間である美由希も完全に無関係とは言いがたいので、そのことには申し訳なさすら感じた。 美影を筆頭に、琴絵や美沙斗など、他に事実を知る者たちも、目を閉じ、どちらかと言えば、恭也に嫌悪を向ける者たちにこそ、嫌悪感を示している。もっともそれに気付く者はいなかった。 そして、もう一つ。 不破恭也が御神を救った後に、御神を”見限って”失踪したのは、一部の者しか知らない事実である。
◇◇◇
結局のところ、今回の集まりで決められたのは準戦闘態勢に入ること。 色々な話こそ出たが、決まったのはたったそれだけの当然のことであった。
「あの馬鹿が御神を見限ったのも当然だろうな」
会議を途中退席した士郎は、自らが歩く御神家の長い廊下の真ん中で小さく呟いた。
『過去の栄達に溺れ、身を堕とし、己の危機も想像できない者たちに、守護を語る意味はなく、師事する価値も見出せない』
十五年前、初めて人を殺した息子が、蔑むように言い放った言葉。 きっと変わることを願っての言葉であったことは、父親である士郎だからこそ、何より今だからこそわかっていた。 しかし、十五年経っても御神は……永全不動は変わっていない。 十五年前、御神家において行われることになった結婚式。 宗家の長女である御神琴絵と不破家当主の不破一臣の結婚。そうであるが故に、一族中が……真実はどうあれ表面上は……祝い、数日前から集まり、準備が行われていた。 士郎と恭也はそのとき遠い青森の地にいて、祝いの電報だけ送り、出席は見送ろうとも思っていたのだが、恭也が口には出さないものの琴絵に祝いの言葉を直接言いたがっていたことに気付いたのだ。 母がいない恭也は、姉のような母のような存在として琴絵に懐いていたし、琴絵もまた恭也を溺愛していて、それこそ恭也が同年代だったなら、きっと一臣をではなく、恭也を選んでいたと言い、よく一臣を泣かしていたものである。 あまり我侭を言わない……実際そのときとて口に出したわけではない……恭也の心情を慮り、ギャンブルに使おうと思っていたそのとき所持していた金を泣く泣く全て使い、実家に帰ってきたのであった。
「あの判断は間違っていたのか、正しかったのか」
今でもそれはよく考えてしまうことであった。 帰らなければ今も恭也は士郎の傍にいただろう。しかし、帰らなければ御神家は滅んだ。これは間違いない。 恭也がいなければ、今の御神はないのだ。 琴絵、一臣の結婚式当時も今と同じ、御神は地下に潜っていた。それはつまり大きな仕事はなく、さほど目立つことをしない。今と同じ停滞期に当たる。長い歴史を持つと、突発的にそんな時間が訪れることがあるのだ。逆に唐突に忙しくなったりすることもある。 しかし、そういう状況になると人は平和ボケする。状況の停滞は、肉体の停滞ではなく、精神の停滞をもたらすのが常であった。 それは御神も同じこと。 それなりの平和を享受し、リスクコントロールを忘れたのだ。 事が起きたのは結婚式前日。 準備に忙しい中で、唐突に現れた強大な殺気と闘気。しかしながら洗練され、強大であるというのに、異様なほどの隠密性をほこるものであった。 そうであるが故に、気付いたのは士郎や一臣、静馬クラスの者たちのみ。 無論、すぐに現場へと向かったが、その殺気に感づいた者以外は、誰も動かさなかった。 気配や殺気のコントロールに優れる一臣でも、同じことをやれと言われれば、できないとは言わないが、かなり難しいと断言している。 結論として、かなりまずい戦闘者の可能性が高いという判断を下し、弦馬や美影、他腕利き数人に本家のことを任せ、士郎、一臣、静馬が現場に向かった。 そして、そこに居たのは一人の修羅である。
『ふむ、殺気と闘気のコントロールはこんな感じでよかったはずだが……いかに”幾万幾憶幾兆と戦いの歴史を見ても”、見取り稽古では完全な模倣は無理か。しかし、確かにこの脳に、この神経に、この肉体に、技の一つ一つを刻み付けさせてもらった』
五体の死体に囲まれ、その中央に佇む小柄な修羅。 その修羅こそが不破恭也。 そんな光景を見て誰もが思ったことは一つ。 ――ありえない。 強大でありながら、緻密にコントロールされた殺気は、まだ子供の恭也から立ち昇っていた。 次いで転がる死体に目を向ければ、鮮やかとも言える殺し方。なぜか全ての死体の両腕がなくなっているが、その断面すら見事に断ち切られている。しかしやはりなぜか断ち切られたはずの腕の先はなくなっていた。 死体をよく見れば、引き締まった身体をしていて、相当に鍛え上げられた戦闘者たちであることがわかる。 同じことをやれと言われれば、無論士郎でも可能なこと。しかし、まだ八つの恭也がそれをやったとは到底思えなかった。 恭也はさほど才に恵まれてはいない。秀才ではあったし、物覚えもよかったが、それだけだ。一般においては天才の範疇であろうが、御神の中ではそれでさえ足りない。 しかしながらその物覚えのよさと、士郎に連れられ、放浪し、戦いを繰り返すことで地力を上げ、年代からすれば圧倒的な戦闘経験を持っていた恭也の強さが他の同世代の数歩は先にいたことを知る者は、そう多くない。 だが、この地獄を作り出すには、この殺気を発するには、まだ足りない。 だからこそ、士郎は聞いた。 何があったのか、と。 その言葉への返答は短かった。
『……セカイの広さを視た』
声変わり前の高い少年の声。そのはずであるが、どこか全てを悟りきった老人のようにも聞こえた。何よりも、士郎たちを見る目が、濁りきっていたのだ。 その濁りは、一種の狂気である。 何か一つだけを求め続ける、それ以外を路傍の石の如く興味を示さない。 裏社会にあれば、一度や二度は見るものであったが、その深度は、今まで士郎が出会った誰よりも深い。
『早く御神家を家探しした方がいい。爆弾がしかけられている。爆発するのは明日だろうがな』
それを聞いて、全員が目を見開き、唐突な変化を見せた恭也であれど、しかし御神の一員には間違いないと、それを言葉半分ながら信じ、士郎と恭也を残して、二人が本家に踵を返した。 数分もすると、本家内からざわめきが聞こえてきた。爆弾を見つけたのだ。 そのざわめきこそが、この襲撃と危険性を完全に考慮していないかったことの証明である。
『無様だな。過去の栄達に溺れ、身を落とし、己の危機も想像できない者たちに、守護を語る意味はなく、師事する価値も見出せない』
どろりとした怒気を浮かべ、恭也は言った。 そこに先ほどまでの恭也はいなかった。 元より本当に子供かと疑ってしまうほどしっかりとし、大人びた少年であったことは、父親である士郎も認めるところだが、こんな怒気を知人に向ける少年ではなかったはずだ。 士郎はもう一度、何があったと聞いた。
『先ほど言ったとおり、魔女の戯れで、セカイの広さを視た。そうでなければ俺もまた身を落としていたのかもしれないのが情けないところだが。いや、他にも可能性はあるのか。本来のこの世界ではどうなったかは、もうわからんがな』
もはや何もかもおかしすぎた。 元からの部分もあったが、言葉遣いまでも完全に子供らしさを失っている。
『何よりも大きな目的ができた。俺の生涯の全てを使ってでも達成したい目的が』
浮かぶ表情は無感情、無表情。しかし目に浮かぶ濁りは、狂気はさらに深まった。 そうして恭也は呆然とした様子で、天を見つめる。
『俺は、全てのセカイの”俺”よりも……強くなりたい』
目には狂気の炎を。 口元には凶笑を。 子供が浮かべてはいけない表情を浮かべるそんな恭也を見て、士郎はそのときのからからと喉がひりつき、異様なほど口の中が渇いた感触が昨日のことのように思い出せる。
『そのためには今の御神では……”この世界の御神では”足りない』
出てきたのは、御神を見限る言葉。 事実として、このとき恭也は見限っていたのだろう。だからそれを失踪という形で示したのだ。
「兄さん!」
そんな昔のことを思い出していると、背後から声をかけられ、振り向くといつの間にか一臣がいた。 すでに御神本家から出て、それなりに歩いていたはずであったが、士郎の足取りはそれだけ重かったのだろう。 気が重いというのは確かだが、いかに一臣の気配のコントロールが緻密であるからと、ここまで接近に気付かなかったのはかなり情けないと、士郎は内心でだけ嘆息した。
「なんだ、もう終わったのか?」 「結局決まったことはしばらく防衛、迎撃体制をとるっていう一つだけさ。あとは聞いていても意味もない不毛な会話だ。早々にできる限りの情報収集に当たるって言って引き上げてきた。琴絵や姉さんたちには睨まれたけどね」 「そりゃあいつもの宴会や井戸端会議程度ならともかく、あんなところに置いてくればな」 「兄さんだってそうじゃないか」
俺はいいんだよと士郎が返すと、一臣は仕方がない人だと笑う。
「恭也君のことを考えていたのかい?」 「あ?」
一臣の唐突と言えば唐突な、しかしある意味タイミングがいいと言えばいい言葉に、士郎は思わず口を開けた。
「僕が背後から兄さんにここまで接近できるときは、大抵恭也君のことを考えているんだろう?」 「…………」
士郎は肯定も否定もせず、だがどこか寂しげに笑った。 それこそが雄弁な答えなのだろう、と一臣は納得したのか、士郎の横に並び、帰路につく。
「僕も人のことを言えないのかもしれない。いや、僕だけじゃなく、琴絵や静馬さん、母さん、弦馬さん、御神の重要な位置にいる人間ほど、恭也君に負い目を持っている」
やはりそれも士郎は肯定も否定もしない。 こればかりは、本当にする意味はなかったのだ。事実として彼らは、恭也に負い目を感じている。 救われた恩がありながら、その功績を公にすることなく、むしろ謎の失踪をしてしまったことだけを公表した。 そうせざるを得なかったのだ。 子供に多くの人間が救われる。それはある種の美談ではあるが、その少年がいなければ滅んでいたというのは、武闘派の家系として汚点となる。 分家の宗家への信頼も地に落ちるだろう。 無論、分家も当然その少年に救われたはずなのだが、一部の権力欲だけは人一倍な阿呆や老害どもはそう言ったことは無視してくるし、理屈だてるのだけはうまいのだ。むしろそんな状況を作り、リスクコントロールを怠った……自分たちもそうであるはずなのだが……宗家や不破家を責めるだろうし、失踪したとしても恭也の名を御輿にしてくる。 その上に当時は静馬、一臣両名共に、当主を継いでそれほど経っていない時期であり、まだ所詮若造でしなく、求心力が低かったのも原因だ。 そうなれば事態の収拾で、かなり荒れることになっただろう。だから恭也の功績自体が隠されて、他の者が警備中に爆弾を見つけたことになったのだ。 ある意味で、恭也の失踪はそう言った人間からすれば、渡りに船であったし、とくに当時は、どういうわけか永全不動の全てから失踪する子供が多かった……しかも全員がかなりの重要人物……のも、隠れ蓑となった。 そのことを知るのも、やはりごく一部だけである。
「たまに思うんだ。恭也君はもしかしたら、そこまで見越して自分から消えたんじゃないかって」 「……まあ、見越していただろうな。けど――」 「僕たちを見限ったのも事実だって言うんだろう?」
恭也にあの言葉を向けられたのは士郎だけだ。だから琴絵などは、恭也が自分たちを見限ったという士郎の言葉を完全には信じきれていない。 いや、彼女たちが信じていていないのは、それだけが理由ではないだろう。
「僕たちがこうして幸せになれたのは、早苗が生まれて、こんな家だけど健やかに育ってくれたのは、恭也君のおかげだ。そのことを僕たちは忘れたことはない」
辛そうに歯を食いしばって言う一臣を見れば、それがどこまでも本音であることはわかっている。 御神の中で、恭也という存在に深く囚われているのは、きっと士郎と一臣、琴絵夫婦、そしてその娘である早苗だ。無論、囚われ方はそれぞれ違う。 士郎は何かが違っていれば、恭也はまだ傍にいたのではないかという未練。 一臣と琴絵は、恭也に救われ今があることを娘の成長を通してかみ締めて来たからこそ。 早苗は、尊敬と憧憬を向け、決して会うことができない両親と自分の命の恩人である故に。
「恐らくだが、草壁をやったのはきっと恭也だ」
今度は士郎が唐突に、それもまるで今日の夕食の献立を予想するかのような気軽さで言った。
「………………は?」
当然ながらその言葉を理解することができず、一臣は間抜けな声を出す。 士郎はそんな一臣を横目で見ながら、懐に手を入れた。 そして、目的のものを取り出す。
「お前は八雲の方にいったんだろう? 何か手がかりはあったか?」 「い、いや、報告どおりだよ。彼らは詳しいことは何も話してくれなかったし、現場は八雲本家だから入れなかった」 「……俺はこれだけは手に入れた」
そう言って、ポケットから取り出したそれを一臣の手に乗せた。
「小刀?」
それは白木作りの鞘に納まった小刀。
「草壁本家にあった」 「入れたのかい!?」 「勝手に入ったんだよ」 「警備は?」 「抜けたに決まってるだろう。まあ、まともな警備もいなかったし、さほど難しくはなかった。聞いた感じだと、草壁が一番被害でかかったみたいだしな」
士郎は一臣の手から小刀を取り返すと、鞘から引き抜く。 さほど使われた様子がない。しかし、手入れはかかしていないというのが、刃こぼれどころか曇り一つもないところから推測できる。 士郎や一臣からしても扱い慣れた武器であり、御神の基本武装の一つだった。
「まるで見つけてくれとでも言いたげに、何もない庭の中央に置いてありやがった。間違いなくメッセージ……恐らくは宣戦布告だろうよ」
士郎は手の中で小刀を見つめながら告げる。 そんなところにありながら、草壁の人間は誰も気付かなかった。正確には気付けないほど、手ひどくやられたのだ。無事だったのは非戦闘員ぐらいである。 怪我が酷い者はそれほどいなかったが、恐怖で心が殺されている人間もいた。 悪霊とすらやり合い、本来その悪霊と戦うための技術を人間相手に行使する外道の一族を相手に、そこまでやってしまった敵に、士郎もまた少なからず恐怖心を抱いている。
「でも、それが恭也君のものだとは。武器としてはさほど珍しい部類じゃない」 「さっき茎【なかご】を確認した。彫ってあったんだ」 「何が?」 「”不破”だ。まあ、俺が彫ってもらったんだがな。子供の持ち物に名前を……っていうのとは微妙違うが、記念みたいなものと、願掛けとしてな」
初めての小太刀以外の武器。それも当時恭也が持っていた小太刀とて練習刀だったが、これは名刀とまでは言わないが、実戦の使用にも耐えうる本格的なもの。 その記念という意味と、決して誰にも破れず、生き残れという意味で、不破を彫った。 それがこの小刀にはあったのだ。
「俺が、小太刀以外で初めて恭也に持たせてやった小刀だ」 「…………」
一臣が絶句する。 その反応も当然だろう。 先ほどあの集まりに行く前に、静馬と弦馬には同様の報告を先にしたが、どちらも同じ反応を返した。
「他のやつらには言うなよ」 「い、言えるわけがない」 「まあなあ。とはいえあいつが乗り込んできたなら、そのときばれるわけだが」
が、事前に報告しても、信じられない……一臣たちとは違う意味で……という反応か、不破がグルになっていうるのか、という反応しか返っては来ないだろう。
「恭也君がセカイの一員……ってことかい?」 「対外的にリーダーってことになってるのは、どんなやつだったけか?」 「剣界の王、だね。紅の夜とか、他にも色々と呼ばれてる。性別も容姿も何もわかってはいないけど」
中二病チックな名前だと士郎は内心で笑うが、裏社会においてはさして珍しいことではないどころか、よくある形であり、異名の一つであった。 話に幾度も上がるほど有名な、もしくは凄腕の人間を、『あれ』『それ』だけで区別するのは面倒だ。だからこそ大抵は固有名詞がつく。 または名前を売るために自ら名乗る者もいるが、それとて本名ではない。裏社会で本名を自ら売るのは、よほど自信家かただの馬鹿だ。 剣界の王という仰々しい名前も、本人がつけたものではあるまい。 例えば偽名。例えばコードネーム。例えば本当の名前を捩ったもの。例えば情報屋が区別するために。 様々な理由が考えられる。
「他にわかっているのは、紅の観察者、紅の妖精、王弓、狂王に、まあ他にも何人か」 「どれが恭也かねぇ。やっぱ剣界の王が妥当か?」 「なにを冷静に言ってるのさ?」
嘆息混じりで言う士郎に、さすがに弟である一臣でも不謹慎に聞こえたのか、とがめるように言葉を向けた。 しかし、
「…………お前には今の俺が冷静そうに見えるのか?」
言って士郎は一臣の眼を見た。 すると一臣は、喉を鳴らして呻き声を上げ、それどころ一歩後ずさる。 自分が思っている以上に、怒気が漏れ出ていたことに気付いた士郎は、眉間を怒気とともに揉みほぐすように、指で何度もこすった。 アホらしいことでも何でも口にしていないとやっていられないのだ。 それから一言一臣に謝ると、むしろ一臣の方が謝り返す。
「もちろんどっかの馬鹿が、恭也から奪って、身元を吐かせたって可能性だってなくはない。とはいえ、そうであるならば……」
――もはや恭也は生きていないだろう。
続く言葉ぐらいわかった一臣は、続きを促すことはない。
「どっちがいいんだろうな?」 「……ある意味究極の質問だよ」 「だなあ」
生きていて敵に回ってくるのがいいのか、死んでいて今回の敵は息子の仇であると意気込む方がましなのか。 普通の親なら前者なのかもしれないが、士郎の立場は一般的な親からは乖離しすぎてた。
「なのははともかく、桃子には話せんな」 「うん。僕も……早苗や琴絵には言わない方がいいだろうね」
桃子は会ったことのない話に聞いただけの義理の息子でも、常に心配していた。士郎を慮ってか、それを表面的に見せることはないが、士郎にはそれが感じ取れている。 琴絵もまた同じだし、早苗も尊敬の念がいきすぎている部分がある。早苗は一臣や琴絵がことあるごとに、自分たちは恭也に救われたとか、他では悪く言われているが、本当はすごい人物だ、などと寝物語でずっと語り続けたが故の美化のせいであるのだが……。 そして、なのはは……
◇◇◇
御神家ほどではないが、不破家の家宅は大きく、また土地は広い。分家の中では最も大きく、広いだろう。庭には学校にある武道館にも負けないほどの大きさの道場もあった。 稀にこの家の方に、御神一族の一部が集まることがあるし、住んでいる人間もお手伝いを含めると二十人を超え、旧家と言って……この辺りは御神一族が長年住んでいて、かなりの土地を所有しているので、その本家、分家のほとんどが旧家と言えるのだが……差し支えなく、当然と言えば当然だ。 そんな家に十年以上も住む不破なのはからすれば、もはや当然のことであるが、他者から見れば、まず引かれる事実だというのを知ったのは、いつのことだったろうか。 そんな取り留めないことを道場の片隅で考えながらも、なのはは目の前で一心不乱に小太刀を振る少女の姿を眺める。
「ふっ!」
まとめた長い髪を後ろにまとめ、文字通り馬の尻尾のようにふりながらも、少女は気合を込めて木刀を振っていた。 不破早苗。 なのはの叔父である一臣の娘、つまりはなのはの従姉妹。同じ従姉妹である美由希とは違いなのはと同学年であり、当然ながらなのはと同じ十三歳……正確にはなのはは早生まれなので、まだ十二だが……である。 同い年のなのはよりも身長が頭一つ分は……同年代で比べるとなのはが小柄というのもある……高く、切れ長の目をしていて表情も大人っぽく、なのはの同級生というよりも、姉のようだとよく言われる。 早苗は剣を全力で振り下ろすと、それを揺れ動かすことなく止めてみせた。 なのはにはよくわからないことであるが、こうして全力で振り下ろした剣を振り切るのではなく、揺らすことなく止めるのは、筋力ではなくかなりの技術が必要であるらしい。
「なのは、どうだった?」 「にゃはは、私は御神流やってないからわからないよ」 「そんなことわかってるわ。あなたの印象だけでいいの。正直、技術的な意見は求めてないのよ」
そう言われてもなあ、なのはは苦笑う。 早苗に言った通り、なのはは不破の人間でありながら御神流を修めていない。 六つの頃に、父である士郎から将来は何をやりたいか、と問われて、なのはは母と同じパティシエと何の迷いもなく答えた。きっとこれが御神流を習うかどうかの問いであったのだと今はわかる。 もっと幼い頃から何とはなしに、父や叔父、従姉妹である美由希や、その他親族、一族の修練を見てきたが、それ自体も、また守るという信念も、正直に言ってすごいとは思ったが、憧れたことはなかった。むしろ美味しいスイーツで人を笑顔にする桃子にこそ憧れたのだ。 士郎はその想いを汲み取ってくれたのだろうと、今ではなのはも何となくわかっている。 対して早苗はかなり前から御神流の英才教育を受けているため、同年代に彼女より腕が上の者はいないらしく、年上を探しても彼女と同レベルというのはかなり上にいかないといないという話をなのはは聞いている。
「他の人……お父さんや一臣おじさんと比べると、なんだろ、軸がズレてる感じ。美由希お姉ちゃんとか茜さん、千那さんなんかと比べるなら、足取りが微妙に雑? みたいな感じ、かなぁ」
技術的なことはまったくわからないので、あくまで見た感想でしかないが、そう伝えると早苗は、眉を寄せてなんとも言えない表情をとった。 それを見て、なのはは言い過ぎたかと、フォローをしようと思ったが、その前に早苗の方が先に口を開く。
「なのは、本当に御神流やらないの? 正直もったいないわよ」 「ええ?」
今までも何度か言われたことがある言葉であったが、なぜここでそんな唐突にとなのはは返答できず、曖昧な言葉だけが口から出た。
「あなたの目、正直異常だと思うのよね」 「ほら、私ももっと昔から、みんなの鍛錬をしてる姿は見てるから」 「それだけでそんなこと気付けるわけないでしょ。というかそれって御神の人間は全員当てはまるじゃない。でも正直、なのはの場合目だけなら有段者にも引けをとってないと思う」 「そうかなあ。でもどっちにしろ今更遅いよ」 「それは否定しないけど」
なのははすでに十三歳。今から御神流を体得するには、すでに遅すぎた。 他のスポーツや武道ならば、そんなことはないのだろうが、御神流を含む永全不動は特殊だ。その身体的成長すら操る。身体に合わせて技を体得するわけでも、肉体改造で作り変えるわけでもない。技に合わせて”体を成長させる”のだ。 戦闘能力とは別の意味で、狂気すら感じさせる異様さである。 なのはは今が丁度成長期であるが、それでももはや遅い。本気でやるならば、最低四年は前でなくてはならなかった。
「何にしろさすがは恭也お兄様の妹よね」 「早苗ちゃん、それが言いたかっただけなんじゃ」
どこかトリップ気味に、うっとりとした表情で言う早苗に、なのはは思わず半眼になって突っ込む。 早苗は、なのはも会ったことのない兄、恭也を尊敬し、心棒し、心酔し、憧憬を向けていた。そして、それを誰にも隠そうともない。 どちらかと言えば……いや、確実に御神において嫌われていると言っていい恭也にそのような感情を向ける早苗は異端、というわけでもない。 少なくともその強弱は別にして、似たような感情を恭也に向ける者は幾人かいた。もちろん御神全体からすれば、それこそ一握り以下であるが。 例えば五守剣の一人、藤宮茜。 例えば不破家に住み、家のことなどを引き受けてくれている不抜千歳や、その娘である不抜千那。またこの家に住む他の者たちも同じく。 例えば他の不破家に関わりがあると同時に、恭也に近い年代の者やその親。 どうやらなのはの兄は、幼いながらも人望溢れる人物であったらしい。もっと多くの人と関わっていたなら、今の評判はなかったかもしれない。 とはいえ、早苗の場合はまた異端だろう。 ”一度も会ったことのない相手”にそんな感情を向けているのだから。 少なくともそれは、実の妹であるはずのなのはには”欠片ほども理解できない”感情であった。
「……お兄ちゃん、か」
なのはは、兄である恭也にどんな感情も向けていなかった。 好意もなければ悪意もない。実にニュートラルな状態であり、それはつまり赤の他人と同様である。 いや、事実としてなのはからすれば、不破恭也は他人だった。 そんな人がいる、その程度の感覚。 正直に言えば、自分の兄とはいえ、会ったこともない人間を相手に、ここまで好意を向けられる早苗が信じられないくらいである。 なのはにとって、恭也とは生まれたときにはすでにおらず、たまに話に上る赤の他人なのだ。 会ったこともない相手に、好意であれ、悪意であれ向けられるわけがない。それが兄と言えどだ。
「何よ、まだ不満なの?」
そんなことを考えるなのはに向かって、早苗は口を尖らせて言う。 なのはの内心をある程度理解しての言葉であった。
「んー、別に不満なんてないよ。ただ正直、やっぱり私の人生には関係ない人、っていう印象しかないから」
恭也が御神一族を救ったという話は、父から一度か二度聞いたことがある。 父である士郎は、あまり恭也のことを話したがらないのだ。だからこそ恭也の話は、早苗からの又聞きだったり、一臣や琴絵などからしか聞いたことがなかったし、父が話したがらないからこそ、その心情を慮ってしまい、早苗たちの話もあまり深く考えて聞いていなかった。 逆に早苗は、それを寝物語にして育った。その差なのかもしれない。 何にしろ、なのはにとって兄とはその程度の存在に過ぎず、早苗の言うことも理解はできなかった。 しかし、だからと言って、別に早苗が恭也に憧れようと、不満など持ちはしない。美化が激しいところが、少しばかり危うく思ってしまうもののそれも今更だ。 それにこの十年以上音沙汰がないわけだから、恭也が早苗に出会うことはないだろう。早苗の憧れは憧れのままで終わるはずだ。
「あ……そろそろ私いかないと」
なのはは言いながら立ち上がった。
「メニューの撮影だっけ?」 「うん。本当はお父さんがやるはずだったんだけど、本家で緊急の集まりみたいだから」
本当は、今日はなのはの母親である桃子が経営する翠屋で、早苗が言ったようにメニューに載せる写真を士郎が撮るはずだったのだが、その士郎が急遽時間がとれなくなったので、なのはが代役となったのだ。 士郎を見て育ったからか、本人の素質か、なのはもAV機器の扱いが好きで、士郎には及ばないし本格的とまでは言わないが、アマチュアレベルでの撮影ならば、なのはでも可能である。
「わかってるわよ、うちも父さんと母さんが行ったから」
早苗が、ちょうど本家がある方向を眺めながら、眉間に皺を寄せた。 その態度の意味は、なのはにもよくわかる。 やはりこんな家で育ったからか、二人は空気の違いがよくわかるようになってしまっていた。 今日の集まりはいつもとは違う。それがまだ子供の二人にもわかった。 わかったが、その意味を知ることがあるのかまでは、まだわからない。 過去にも幾度か似た空気を感じたことはあるが、それもいつのまにか消えた。緊急事態が起きたというのはわかっても、それがどのようなものであるのかを知るには、二人はまだ幼すぎるのだろう。 それに二人は不満などなかった。 自分たちは、守られるだけの子供であるという自覚があるのだ。 同年代の子供たちと違い、なのはと早苗は感情を排除して物事を考えられた。そのことを情けないとも思わないし、当然のことであると受け入れている。そうでない方が危険だと、もっと幼い頃から教えられてきたからだ。 むしろその辺りは、なのはに対してでさえスパルタであったと言える。こんな家だからこそ、むしろ子供であることを押し付けられ、納得させられた。 とくに士郎は徹底して、なのはにそれを教えている。それは恭也の失踪があったからこそでもあるのだろう。
「まあ、本当に何かあってもアタシたちじゃどうしようもないか」 「そだね」
荒事ならば早苗はそうでもないだろうが、なのはの場合は本当にどうしようもない。
「とにかく私、翠屋行ってくるね」 「千那さんは呼ばなくていいの? 何ならアタシがついてくけど?」
この家のお手伝い……実際には不破の一族であるのだが、本人たちがそう自称している……である不抜千那は、同時になのはの護衛役でもある。 護衛と言っても、そういう役割というだけであって、四六時中傍いるわけでもないし、何かあったとき千那はすぐさまなのはの元に駆けつけるという手はずなのだ。 千那の母である千歳は桃子の護衛であり、基本的に翠屋で共に働いている。 一応、本家の方で何かあったようだから呼んだ方がいいかともなのはは思ったが、士郎から何か言われたわけでもないし、今ここに千那自身がいない以上、彼女も何も聞いていないのだろうという予測をたてた。 早苗はまだ実力的には、年相応……というには才能溢れる剣士のようだが、少なくとも美由希や千那、千歳などの有段者と比べてしまえばまだまだだ。 とはいえ、それでも並の者が束になっても勝てないほどの実力なのが、御神の剣士の恐ろしいところである。
「んー、大丈夫じゃないかな」 「そう」
ほぼ勘に近いなのはの判断に、早苗は特に否は唱えなかった。 それはどういう形で出した結論であるのかはわからないが、なのはと同じく今はまだ事態がいきなり動くことはないだろうという結論を出してのことだ。 そうでなければ無理にでもなのはについてくるか、家から出さないかの選択をしただろう。 なのははまたあとで手を振って告げると、再び小太刀を構えた早苗を背にし、道場を出た。 一般家庭どころか、下手な上流階級の家よりも広く、もはや庭園とも言える庭を抜けていく。 荷物などは心配ない。すでに撮影に使う機材の全て、千歳に車で運んでもらっている。あとはなのはの身一つで向かうだけだ。 家を出ても人通りはあまりない。 それもそのはずで、この辺りはほとんど御神一族の家やらが立ち並ぶ区画であり、用のない人間はほぼこない。また土地の広さの割に古い豪邸ばかりで、土地面積に対する人口比率が極端に低かった。 少なくともこの辺りで人が通ることはあまりなく、これがいつも通りの光景である。 しかし、これだけの豪邸ばかりの上、人通りもないというのに窃盗などの犯罪率はないに等しい。 当然だ。殺気をほんの少し垂れ流しただけで、そこら中から国家権力などよりも恐ろしい者たちが大挙して現れるのだから。 これが人通りが多い場所まで続く。それがあるからこそ、なのはと早苗は一人でも問題ないだろうという結論を出したのだ。 ……そのはずだった。
「え……」
なのはは目の前から歩いてくる人物に気がついた。 それは唐突である。まっすぐに歩いていたはずだった。視線を前に向けていたはずだった。 だというのに気付かなかったのだ。 その人物との距離は、すでに数メートルほどだというのに、他に交差する路地があるわけでもないのに、その人物はどこからともなくという表現がこれほどまで似合うことはないと断言できほどに、いきなり現れた。 なのはの脳裏に警鐘が鳴る。 似たようなことができる人物は何人か知っていた。 完全に気配を消せる者。 それはなのはの周りにも幾人かいて、ある意味慣れた現象でもあった。 しかし、目の前の人物は御神の人間ではない。 それは間違いなかった。
「っ……」
どうすると内心で何度も自分に問いかける。 しかし、とれる手段が欠片ほどもなかった。 ここまで綺麗に気配を消せる人物だ。戦闘能力が低いなどということもないだろう。 悲鳴を上げたところで、助けがくるまでどのくらいかかるか……
「あら、そんなに不安がらなくてもいいのよ?」
すると唐突に目の前に現れた”少女”は、妖艶に笑いながらそう言った。 その声は見かけどおり高く、可愛らしいもので、まるでこちらの心配を打ち消してくれるようで、”逆に恐ろしかった”。
「今日のところは挨拶と顔見せ。今ここで私がことを起こすと、”彼”の今後に支障が出る確率が高い。それほど”高町”なのはが持つ”可能性”は愛に満ち溢れてる。それはそれこそ”彼”にも迫るほどの純粋であると同時に狂気を宿した歪み、狂い、壊れた”可能性”を宿しているのだもの」
この昔ながらの日本家屋の豪邸が立ち並ぶ一角で、”紅いドレス”を着た少女は、ある種のジョークにも見えた。 しかしながら、それがごく自然にも見えるという訳のわからないとしか言いようがない雰囲気を纏っている。
「私はレティア・ヴェノム。今言ったとおり、今日は顔を見せに来ただけよ。明日の夜、もう一度来るわ。そのときは”彼”も動いているでしょうしね」
言いながらレティアと名乗った紅い少女は、妖艶な笑みを浮かべたままなのはの隣を通り抜けていく。 しかし、それでもなのはは動くことができなかった。
「そのときに、魅せてあげる」
その言葉を聞いたとき、なのはの心臓が大きく跳ねる。 それは恐怖ではない。 それはきっと……歓喜だ。
「あなたのあり得るかもしれない未来。あり得たかもしれない過去。あり得なはずの現在。あなたが生まれた世界次第で、あなたの家族次第で、あなたの選択次第で……あり得た全ての可能性を」
なのはのものではない、なのはであるはずがない、そうであるはずなのになのはであるなにかが、その言葉に歓喜した。 その心に引かれ、弾かれたようになのはは振り返るが……
「なん……なの?」
そこには彼女の問いに答える者はいなかった。
◇◇◇
「懐かしいな」
彼……不破恭也は、辺りに立ち並ぶ昔ながら日本家屋とも、武家屋敷とも見える建物を眺めながら呟いた。 すでに時刻は深夜と呼べる時間帯となり、辺りは完全に闇に包まれている。 その中で全身真っ黒な服装で立つ彼は、見る者が見れば、即警察を呼ばれかねない雰囲気ではあるが、その黒という色を完全に着こなしていて、怪しさよりも似合っているという感想の方が前に出てくる。
「私は、”この世界の”御神家を見るのは初めてです。恭也さんの許婚だったときと紅夜 さんのときも見てませんけど」
恭也の隣に立つ者の一人……長く、僅かに銀色がかっている黒髪と、儚げで、どこか人形じみた美しさと雰囲気を纏わせた少女が、同じく家々眺めながら呟く。 年の頃は十代後半といったところで、顔つきは幼さを残すが、決してそれが彼女が持つ人形じみた美しさを加減させたりはしない。 恭也と同じく黒ずくめの衣装であったが、やはり恭也と同じでそれが異様に似合っていた。
「瑪瑙【めのう】のときは、そもそも破壊されていたからな……ふむ、瑠璃【るり】は来たことがなかったか」
恭也が顎に手をあてて言うと、少女……天威【あまい】瑠璃は頷いた。
「はい。少なくとも”今の”私はないですね。他の世界と違って、天威【てんい】も御神との関係も薄かったですから。たぶん吹雪さんもこの世界では来たことはないのでは? 草壁もそれほどこの世界では関係は深くなかったと思いますけど」
そうなのかと、恭也も無表情に頷いて返すと、背後に振り返る。 そこにはもう一人の人物がいた。 やはり長く、透き通った黒髪を背に縛る一人の人物。その髪は艶やかで、月明かりに輝いており、カラスの塗れ羽色というのをここまで体現しているのも珍しく、女性ならば羨ましがり、男性でも思わず振り返って見つめてしまうだろう。 しかしながらその人物は、どういうわけか執事服を来て、片腕を上げ、まさしく執事の鏡と言ってもいい格好をしていた。 顔つきも中性的で、髪の美しさもあり一瞬見ただけでは、性別がわかり辛い。しかしよく見れば男とわかる。あくまで中性的なだけで女顔というわけでなく、背も恭也ほどではないが、男性の平均ほどだろう。 年の頃は恭也と同じ二十代前半ほどか、もしくは半ばほどか。
「麟【りん】、お前は?」 「”この世界” で、というのであれば、私もありません。もっとも”あちら”でもさほど縁のある場所ではありませんでしたが」 「ああ、そうか、”あの世界”での俺の本拠は、一応は不破家だったしな」 「ええ、あの世界でも私は恭也様の執事、あなた様のおられぬ場に、私が居合わせる機会ありませぬ。無論、あなた様が行けと命じるのであればその限りではございませんが」
にこやかに桜花麟は、恭也の問いに答える。 それに恭也はやはりそうかと頷いた。 それから恭也は麟の姿を見て、少しばかり嘆息する。
「しかし、人のことを言えた義理ではないというのは重々承知ではあるが、その服はどうにかならんのか?」 「これが私の仕事着であり、普段着でございますので」 「……私でさえ奇抜すぎだと突っ込みたいです」 「いえいえ瑠璃様、基本的に我がセカイに属する全てのメンバーが奇抜と思いますが? 服装込みで。レティア様など紅いドレスですよ?」 「……恭也さん、否定できません」
瑠璃は眉に皺を寄せ、本当に困ったと言いたげであった。 しかし、恭也としても同じ気持ちである。 全員が全員、それこそ自分自身を含めて、セカイのメンバー全員がまともとは言い難い。 メンバー内で唯一まともと思われる王弓……志摩【しま】絵梨香【えりか】でさえ、対外的にはイカれていると言われる始末である。どうして麟の言葉を否定できよう。
「では今度メイド服も取り寄せましょうか?」 「なぜそうなる? というか、お前が着るというのなら、俺はお前を斬り刻むぞ」 「さすがに女装趣味はありません。瑠璃様や闇菜【あんな】様方にお貸ししようかと」 「私はコスプレ趣味はありませんが? 吹雪さん辺りなら面白がって着そうですけど」
瑠璃まで嘆息気味に言うが、麟はやれやれとばかりに首を振った。
「瑠璃様。男女間において、マンネリほど危険なことはありませんよ。服装とはそのマンネリというものを容易く破壊する言わば最強の兵器であると同時に最終兵器。とくに男というのはイメージプレイやコスチュームプレイには弱いもの。恭也様の気を引き続けるためには必要なものではないでしょうか?」 「……………………恭也さん、喜びますか?」 「何度でも言います。男はコスチュームプレイに弱く、またシチュエーションにも弱いものです」
そんなことをのたまいながら、麟は笑みを浮かべてみせた。 あくまで男という括りであって、恭也とは断言しない麟。
「英司【えいじ】と拓斗【たくと】など、この間はナース服と婦人警官の制服【コスチューム】、看護師と入院患者、婦人警官と道交法違反者というシチュエーションについて熱く語っておりました」 「あの人たちは心底どうでもいいです」
他の男の名前は出すが、やはり恭也もとは断言しない麟であるが、瑠璃は他の男を切って捨てるものの、そのことには気付かない。 恭也は、そんな二人を見てさらに嘆息。彼にはどうでもいいというのが本音である。 女性経験は多い方ではあろうが、イメージプレイだのコスチュームプレイだのの経験はないので、正直わからないし、心底どうでもいい。
「……もういい」
恭也はどこか諦めたように首を振ると、視線を前に戻す。 三人の目の前には、古めかしくも、大きな木製の門があった。その向こうには、辺りの建物と比べても一際大きい日本家屋がある。 御神本家。 この大きな門の向こうこそが、三人の目的地。
「そろそろ用事を済ませるぞ」 「御意に」 「はい」
恭也の言葉に残りが頷いた瞬間、三人の存在感が突然膨れ上がった。 同時に門の向こうから、いくつもの驚愕に大きく揺れる気配が感知できる。今更になって彼らは恭也たちの存在に気付いたのだ。
「では、ここは私が」
麟はそう言って一歩に前に出ると、どこからともなく……本当にそうとしか表現できない……手甲を取り出すと、両手に装着した。 そして、
「桜花流、奥義之一」
麟は微笑を崩さず、左手を突き出し、右手を引き込む。
「閃華」
次の瞬間、麟が一歩前に出ると同時に、右手が消えると同時に御神家を外界から守るはずの巨大な門が……呆気ないほど軽々と弾けとんだ。 それはまるで大砲を真正面から受けたかのように、門は穿たれ、破壊され、辺りに木片を撒き散らす。 その目の前に、やはり麟は微笑を絶やすことなく、残身とともに打ち出した拳を引き戻すと、道を譲るように脇へと移動し、左手を腹部の前に添えて一礼した。
「あなた様が歩む道を遮る物はもはやありません。どうぞ、お進みください。我が主」
恭也は頭をたれる麟に何を言うでもなく、破壊され、今やただの粗大ごみになってしまった門を超える。 そんな恭也に、瑠璃と麟も続いた。 恭也を中心に、三人は堂々と進む。 庭園とも言っていい御神家の大きい庭は見渡しもよく、建物から出てきた二十人を超える御神の関係者……否、御神の剣士たちが飛び出てくるのが見えた。 また元より警戒していたのだろう。庭に配置されていた人員もおり、それらが三人を包囲するように駆けてくる。
「ここは任せる。俺は先に進んで、五剣と宗家連中をやる。正面奥にいるようだ」 「お任せを」 「怪我しないように気をつけてくださいね」 「俺としては、そのぐらいのことをしてくれるほどの敵であることを祈る。とくに男としては、情けない父親など見たくもない」
そう言い残し、恭也の姿が消えた。 それに驚く御神の剣士たちだったが、次の瞬間には正面から詰め寄って来ていた六人の身体から血飛沫が上がり、次々と倒れる。 そして、その奥に再び恭也が現れ、そのまま敷地奥に見える一際大きい建物へと目指し、急ぐでもなく歩を進めた。
「な、ぁっ……」
御神の剣士たちは、それぞれ唖然としたように口を開けるか、目を見開くかをして完全に固まってしまっている。 それは恭也が瞬く間に同胞を倒したからではなかった。
「っ……!」
ただ足が動かない。 悠然と無人の野を歩くように進む黒衣の男の背。その背にもはや目に見えるほどの闘気と殺気が黒い色として形をなしていた。それが重圧となって、完全に固まっている。 百戦錬磨である彼らが、一人ですら倒すには重火器で武装した兵士が百人必要だとも、そうですら足りないとも言われる彼ら御神の剣士たちが…… ただ一人の男の背に恐怖を覚えた瞬間であった。 しかし大きな鈍い音ともに、その中の一人が吹き飛ぶ。
「私は峰打ちが苦手なので、切れてたらすみません」
その声は可憐の一言。 しかしその手に握る太刀は、鈍い殺意を放つ。 それらを持つ少女……瑠璃は、自らが吹き飛ばし、それだけで気絶してしまった男を冷めた目で見つめた。
「御神の剣士には憧れのようなものがあったのですが、所詮は幻想ですか。まあ、あの人の十分の一でも強くなれというのが無謀な話ですかね」
瑠璃は一人を呟くと、太刀を一度大きく振る。
「一応、名乗らせていただきます。私はセカイの一員、天威瑠璃。セカイのリーダー、不破恭也のモノ。 あなたたちにも通る名乗りであるならば、永全不動八門一派・天威劫燈流、天威瑠璃ですがね」
再び御神の剣士たちの身体が動揺と驚きで、大きく揺れた。 彼らが反応したのは三つ。 不破恭也という名前と、まるでとって付けたかのように、蛇足のように告げた流派の名前と彼女の自身の名。
「天威の姫君だと!? 十年も前に拐かされ、行方不明になっていたはずじゃ!」 「不破、恭也!? なぜ今更その名が出てくる!?」 「いや、それよりもなぜ天威が御神を!?」
次々と疑問符とともに叫びとも聞こえる声が響くが、それ同度に口を開いた者たちが、瑠璃の太刀に弾き飛ばされる。 先ほどの言葉の通り、峰打ちではあるようだが、完全に意識を刈り取られ、立ち上がる気配はなかった。
「驚きと疑問なんてあとにとっておくべきですよ。今は殺し合いの真最中なのですから。とくに驚くというのは人間の感情の中では最大級の隙です。まあ、恭也さんにレベルが低いようならば”手加減して”なるべく殺すとは言われているので、私は殺す気はありませんがね」
疑問などあとにとっておけと言いながら、本人はまるで周囲の人物をなめているかのように口を閉じない。いや、手加減などという言葉が出てくるところからして、本当のなめているのだろう。 もしくは挑発なのだろうが、それでも御神の剣士たちは完全に驚愕から立ち直れていなかった。 そんな中でまたも一人の御神の剣士が、骨が砕ける破砕音とともに倒れ伏す。 そこには拳を突き出す麟の姿があった。
「ふむ、他の四派と同じく今回もまたただの梃入れで終わりですか。今の彼らでは我らの……いえ、恭也様の敵になり得ない。できれば恭也様の期待に応えてもらいたかったのですが」
言いながら、麟は拳をおさめると戦闘の場であるにも関わらず、恭しく頭を下げて一礼した。 このすきに攻撃をしかけてこない。それこそが主の敵になり得ないという証明である。麟は内心で思いながらも、口を開く。
「私はセカイの一員として、また恭也様の執事として仕えさせて頂いている桜花麟と申します。瑠璃様のように、あなた方にも通る名乗りであるならば、永全不動八門一派・桜花新月流、桜花麟と。かつて桜花の末席に連ねていた若輩者であります」
麟の顔には浮かぶのは、敵意の欠片すら見出せないにこやかな微笑。しかし、すでに血が舞い、数人が倒れる戦場と化した場所では、だからこそ恐ろしい表情であった。 セカイ―― 最悪の戦闘集団と呼ばれる狂人三人と御神との戦争が始まった。
◇◇◇
唐突になのはは目を覚ました。 目を開ければ、薄暗い中ながらも十数年見続けた天井が目に入ってくる。 我がことながら、異常とも言える覚醒であった。 元よりなのはは自分が、寝起きが悪いということを自覚している。しかしそうであるにも関わらず、今このときはまるでずっと起き続けていたかのように頭の中がクリアであった。 天井からここが自分の部屋であるというのがわかるし、視線を動かせば少しばかりピンクの色が多く、人形などのファンシーな小物が多いどちらかと言えば少女趣味の部屋が見渡せる。もっともその中に、ごついアンプやら映像機器やら、それらを編集する機器やらがまとめてある一角があり、妙に浮いているのだが。 何の異物もない、いつもどおりの自分の部屋。 しかし、その見慣れた自分の部屋になのはは強烈な違和感を覚えた。 それはごく僅かな違和。まるで魚の小骨が喉に刺さったかのような違和感であった。
「ようやくお目覚め?」
だからその声が聞こえた瞬間は、驚きはしなかった。違和感はそれだったのだと納得してしまったほどである。 声がした方に視線を向けると、窓の縁に腰掛ける少女が一人。 それは昨日……いや、今がもう深夜を回っているならば一昨日出会った人物であった。 なのははゆっくりと上半身を起こす。 それから少女……レティア・ヴェノムをじっくりと見た。
「レティア、さん、だったっけ? 一つ……聞いてもいいかな?」 「なにかしら?」 「どうやってここまで来たの?」
彼女が”ここにいること”自体には、なぜか驚きはない。しかし彼女が”ここまで来れたこと”には、今更ながらではあるが驚きを禁じえない。 ここは不破本家。 御神の裏の不破。はっきり言ってしまえば他の分家とは別格であり、御神本家の次に警備が厳しく、また相当の実力者が揃っている。いや、単純に忍び込むというのであれば、 御神本家よりも難しいとすら言われていた。 そもそものところこうしてなのはが目覚め、しかも声まで上げたにも関わらず、千那が現れないことが異常だ。
「普通に、よ。普通に門から庭に入って、普通に玄関を潜って、普通にここまできたけれど?」 「誰にも見つからずに?」 「ええ、見つからずに。まあ、さすがに不破の人間に効くかどうかは正直自信はなかったのだけれど。少なくとも彼には効かないし。でも効いてよかったわ。ま、不破士郎と不破一臣は無理だったような気がするけどね」 「効く?」
レティアの物言いが理解できないなのはは、思わず首を傾げる。
「認識阻害の魔術をちょっとね」
魔術……ファンタジーこの上ない単語を耳にし、なのはは思わず胡乱げに眉を寄せた。 それを見たレティアは苦笑を浮かべる。
「あなたの周りの人間だって、十分にファンタジーの領域に片足……どころか全身を突っ込んでいるんじゃないかしら?」
そして、小首を傾げながらもそんなことを言った。 それになのはは思わず喉を詰まらせる。 反論が欠片ほども思い浮かばなかったからだ。 確かに生身で目の前から消えて見せるような人外が、周りに何人といる現状を鑑みれば、魔術などあっても何ら不思議ではないと納得させられる。
「ちなみにこの部屋の前で不寝番をしてる不抜千那がこの部屋に入ってこないのは、この部屋の時間を加速させているからよ。気付いてこの部屋に入る頃には、全部終わってるわ」
なのはには、レティアの続いた言葉の意味は理解できなかったが、助けは期待できないということだけはわかった。
「それにしても落ち着いているわね。私みたいな不審者を前にして」 「自分で言うかな。これでも緊張してるんだけど」
ついでに言えば、恐怖だって当然に感じていると、なのはは苦笑を浮かべて言う。
「何となく恐怖は感じるけど、ぜんぜんそうは見えないわよ。さすがは恭也の妹よね。彼も似たような……いえ、もっとひどい状況で、緊張どころか恐れすらしなかったわ。というか、十にもなってない子供が、普通に殺しにかかってくるとは思わなかったもの。あのときあれで八歳だったっていうだからむしろ彼が異常だったのかしらね」 「恭也? お兄ちゃん?」
独り言のように吐き出していくレティアの言葉の中に、聞きなれはしないが、しかし聞けば反応してしまう個人名が入り、なのはは思わず呟いた。 するとそれを聞いたレティアが、またも首を小さく傾げる。
「お兄ちゃん? 何か私が聞き慣れたイントネーションと微妙に違うわね。なのはってもう少し間延びした感じで恭也を呼んでなかったかしら?」 「何の話かな? 私、お兄ちゃんって呼んだことってあまりないんだけど。しかもあなたが聞きなれるほど」
またも場違いなような、そうでないような、なのはですらもうよくわらない突っ込みをいれた。 するとレティアは、どこか納得したように頷く。
「ああ、”この世界”のあなたは恭也のことをなんとも思っていないのね」 「だって会ったこともないもの。あなたの口からあの人の名前が出てくる方が驚きです」 「珍しいこと。むしろ知らない世界ほど、なのはっていう人間は、恭也っていう人間に引き寄せられる傾向にあると思ってたのに」
不破士郎になら、そんなふうに思っている世界はたくさんあったけど、などと続けるレティア。 相も変わらず彼女の言うことは理解できないと、なのははレティアの半分近くの言動を聞き流していた。 レティア自身もそのことに気付いていたが、それに関してとくに何も言うことはなかった。
「独り言の前に用件を教えてくれないかな? 私にどんな用なの?」
なのはは僅かに疲れたように息を吐いて問う。 はっきり言ってしまえば、とうに諦めの境地である。仮にレティアに害意があったとしても、もはやなのはには何もできないし、拐すのであってもそれに対抗する術はなかった。 それがわかっていながら、どうにもなのははレティアを危険視できないでいる。それがなぜであるのかは、なのは自身にもやはりわからない。
「前に会ったときに言ったとおりよ。あなたに魅せてあげにきたの。あなたの可能性を」 「可能性……」
前に聞いたときのように、なのはの心臓が一度大きく高鳴った。まるでレティアの言葉に期待するように。 その意味は理解できないというのに、なのはは確かにレティアの言葉に何かを感じている。 レティアもそれに気付きながら、幼い外見に似合わない微笑を浮かべ、窓の縁から立ち上がった。 赤いドレスと窓の外から覗く月のコントラストが、異様なほどの神秘性を演出している。
「平行世界、パラレルワールド。そんな話を聞いたことはあるでしょう?」 「ファンタジー系に限らず漫画とかだと、使い古された設定だね」 「そうかもね。けれど魔術や魔法と同じで、それもまた確実に存在する」
レティアは言いながら、手を宙に掲げると、手のひらから離れた空中に火を灯してみせた。
「この世界は、確かにそんな夢物語【ファンタジー】の一部でしかないのよ」
トリック、と言うのは簡単だった。今時火を灯すことなど、準備さえ整えれば誰でも可能なこと。 しかし、その炎は次々と色を変えた。 赤から青に、黄に、緑、白、そして黒。 穿ってあえて言えば、これとて科学的には不可能なことではないだろう。様々な科学物質を使えば、炎の色とて変えられる。 だがその火は、美しさとはからではなく、その不気味さが際立ち、なのはの心を疼かせた。
「私はね、他者にその平行世界を覗き視せることも、体験させることもできる」 「…………それができるとして、それをするメリットは?」
そんなふうに問うと、レティアは笑みを深めた。
「私は平行世界の観測者にして、それを覗き見た者の観察者。何がメリットであるかというのなら、知的好奇心を満足させることができること」
問いに答えながらレティアは火を消す。
「私は私の平行世界を視ることはできないのよ。あくまで他人にその人物の平行世界を視せることで、初めて他の平行世界を観測できる。 そうして、平行世界の己を知ったその人物が、その後にどんなことを思い、どんな行動を起こすのか。それを観察する。 それらの知的探究心を満たすこと。それが私のメリットよ」
それは事実だったとすれば、悪趣味と言っていいほど自分勝手なものであった。 そんなことはレティアも理解しているし、理解してなお悪いなどとは欠片も思っていない。
「ちなみに、今一番気に入っているのは高町恭也よ。あれほど複雑に分岐する、分岐するはずだった可能性を持つ者は、私も初めて会ったもの。そして、他の世界に拘ることはあっても、決して呑み込まれてもいない」 「……確かに高町はお母さんの旧姓だけど。お母さんに会ったことがないお兄ちゃんが名乗るのは変じゃない?」 「ああ、ごめんなさい。どちからと言えば、高町恭也であることの方が多いのよ。確かにこの世界の恭也は、高町を名乗ったことなんてなかったわ。高町のことは知っているけどね。って、そんな話はどうでもいいの」
さっきから話を横道にそらしているのはそっちだろうと、なのはは突っ込みたかったが自重する。
「で、あなたはどう?」 「え?」 「知りたくない? 知的探究心というのは、何も私だけに当てはまることじゃないのよ?」
あり得るかもしれない未来。あり得たかもしれない過去。あり得たはずの現在。
――それを知りたくはないか?
もう決して手に入らない過去と現在。もしかしたら手に入れることができるもしれない未来。 今とは違う己。 今の己より不幸かもしれない。今の己よりも幸福かもしれない。 ある意味誰もが求める己の可能性。 己の……セカイ。 知的探究心を満たすという意味で、これほど心惹かれるものはあるまい。 まさに魅せられる仮想現実。 否、仮想ではなく、可能性という現実。
なのはの背中に悪寒にも似た冷たい感触が走った。 それは恐怖でもあり、歓喜でもあり……正の意味でも、負の意味でも、どんな形にも形容することができない感情が確かになのはの身体を駆け巡る。 つい先日、レティアと初めてあったときも似たような感覚に支配されたが、今日のそれはあの日の比ではなかった。 知的好奇心。 なのはは、今の今までさほどその言葉を意識することはなかった。 知らないことを知るという快楽。 なのはも趣味の探求という意味でなら、確かに覚えのある感覚ではある。AV機器を操るのが好きだという趣味とお菓子を作るという趣味が、確かになのはにはあり、初めて新しい機械に触れたとき、初めて新しいお菓子をうまく作れたときの感覚は、至福の時であることを彼女も否定しない。 しかし、そうなのはは初めて知った。知的好奇心とは、恐怖もまた歓喜に並んであることに。 知ることができるかもしれない歓喜と、知ってしまってもいいのかという恐怖。
「っ……」
なのはは、喉が異様なほど乾いているのを自覚した。 そんな様子をレティアは、本当に楽しそうに、心底の笑顔を浮かべて眺めている。彼女にとって、この時、この瞬間も楽しいひと時であるのだ。 レティアはすでに知っている。 なのはが絶対に頷くことを。 今なのはが恐怖も同時に感じていることを理解しながら、レティアは彼女が頷くことを確信し、だが悩んでみせる表情を楽しんでいた。 他のセカイを知るという誘惑は、決して振り払えない。 時間にして数分。なのはは乾いた喉を僅かに鳴らして頷いた。
「知りたい…………」
か細く、小さな声であったが、それは同時になのは自身が驚いてしまうほどにはっきりと口から響く。 同時になのはは、口に出してから自分の発言に驚いた。 なぜ己がその言葉を吐いたのか理解できない。 しかし、まだ十年と少ししか生きていないなのはにとって、道とは未知。 今の自分に全て満足していると言えるほど達観してはいなかったのだ。 だからこそ、若さと幼さからくる好奇心を、本当の夢物語【ファンタジー】を前にして、押さえられるわけがなかった。 レティアがなのはの反応に満足したかのように、妖艶に笑いながら笑みを浮かべる。
「じゃあ、視てきなさい。あなたの全てを」
そして、その言葉とともに指差されると、なのはの意識は途絶えた。
◇◇◇
「ああ、楽しみね。多くの可能性を体験し、多くのセカイを知ったあなたが、この世界に戻ってきたとき、何を思い、何を望むのかしら?」
レティアは再びベッドの中に眠り始めたなのはを視て、笑い、哂い、嗤う。
「他の可能性に嫉妬するのかしら? 他のセカイを羨望するのかしら? 他の可能性に絶望するかしら? 他のセカイに希望を抱くのかしら? それとも他の可能性を、他のセカイを求めるのかしら? ”あなたも”他の可能性とセカイを糧に、それ以上の何かさえ渇望するのかしら?」
――例えば不破恭也は、あらゆるセカイの己を超え、最強の己になることを渇望した。 ――例えば天威瑠璃は、不破恭也を至上とし、己を含めた他の全てを切り捨て、共にあることを渇望した。 ――例えば草壁吹雪は、この世界でも不破恭也と縁を結び続け、愛し続けることを渇望した。 ――例えば志摩絵梨香は、この世界でこそ、決して死ぬことなく、不破恭也を支え続けることを渇望した。 ――例えば八雲英司は、敗北し続けることを振り払い、不破恭也に一度でも勝つことを渇望した。 ――例えば桜花麟は、己にとって究極の存在である不破恭也の仕え続けることを渇望した。 ――例えば神楽闇菜は、例えば海堂拓斗は、例えば久保蛍は……
他のセカイを垣間見て、体験して、それまでの己であり続けられた者は誰一人としていない。 できるわけがないのだ。 なぜなら可能性とは毒なのだ。 他の己を肯定するのか、否定するのかはそれぞれによって違うだろう。しかし、それを完全に無視できる存在はいない。 どんなに精神的に強い者であろうと、それこそ聖人君子であろうと、悪魔であろうとも、完全に無視を決め込めるものなど絶対にいないとレティアは……否、他のセカイを覗いた者は断言する。
「でも、予言してあげる」
一つだけ言えることがあった。 すでに不破恭也のセカイを見たからこそ言えること。
「あなたは必ず恭也を求める。あなたの兄を求める。それこそ他の何を捨ててでも……」
それが恭也のこれからの未知にどんな変化をもたらすのか。 それこそが…… それを観察することこそが…… 今の彼女の望みであった。
 |
Re: 短編など ( No.477 ) |
- 日時: 2015/06/03 18:16
- 名前: テン
●前回の話の続きではなく、最近書き手としても読み手としても恭なの成分が足りんのだ! と書いた執筆時間わずか一、二時間ほどの即興短編です。なので短いですし、あまり期待せずにお読みください。
デートの境界線
休日の駅前の昼過ぎは、それなりに混雑している。これからどこかへ出かける者もいれば、駅前にある多様な店を見て回る者も多いのだろう。そこに一組の男女がいた。いや、男女というよりも、青年と女の子と言った方がいいかもしれない。 その見た目から、両者の歳が離れているのが一目瞭然であり、お世辞にもカップルなどには見えない。まあ、実際にカップルなどではないのだが。
「えへへー」
そんなどこかだらしない声が聞こえ、青年……恭也は軽く息を吐き出し、自分の左腕に視線を向ける。正確に言うならば、そこにへばりついている少女にだ。 そこにいる少女……なのはは、そんな恭也の様子には気付かず、その小柄な身体を擦り付けるようにして彼の左腕に抱きついていた。その様子は兄に甘える妹というよりも、飼い主に擦り寄る子犬のように見える。なのはとしては兄にして、好きな人に甘えているつもりなのだが。
「なのは、歩きにくい」
もちろんそんなことわかるわけもない恭也は、今の自分の姿ははたからどう見えるのかと考えつつ、今度は疲れたようにため息を吐きながら言った。 辺りを見渡せば、駅前ということもあり人目に付くらしく、どこか微笑ましげに見られているようだった。恭也となのはは、年齢が離れている上、外見はあまり似てはいないものの、人の目にはきちんと兄妹に映っているようだ。 恥ずかしいというのもあるが、身長差がありすぎて歩きにくいというのも恭也としては事実。 だがなのはは、そんな恭也の言葉と態度に頬を膨らませた。
「むー、今日はデートなんだから腕を組むのは当然なのです」 「デートって……」
むくれるなのはのデート発言に恭也は思わず苦笑する。 今日二人が駅前に出てきたのは、純粋に買い物だ。 これが歳の近しい男女ならば、確かに買い物とはいえデートという範疇に入るのかもしれないが、現実に恭也となのはは兄妹であり、周りの反応もやはり男女ではなく、兄妹を見るものでしかない。 やはり兄妹で買い物にきた、という方がしっくりくる。
「デートです!」
だがなのははデートだと頑として譲らない。 それに恭也は、なのはもそろそろそういうのに憧れる年頃なのだろうと、僅かに頬を緩めると同時に、多少の寂しさを覚えた。
「そうか、ならばデートということにしておこう」 「うん!」
それになのはは大きく、だが嬉しそうに頷いた。 なのはの成長に対するわずかな寂しさも確かにあったが、その笑顔を見て、恭也も微かに笑みを浮かべた。
「しかし、デートと言っても……何をどうするものなんだろうな?」 「はにゃ? どうするって、どういうこと?」 「兄はデートというものをしたことがない」
男としてはどうなんだ、という言葉ではあるが、恭也は大して気にせずに告げる。 実際、本当のことだ。恋人もいないのに、デートなどできるものではない。
「……ええと、フィアッセさんとか忍さんとかとしたことないの?」 「ないが?」
迷うこともなくあっさり答える恭也に、なのはは恋敵とはいえ、少しばかりフィアッセたちに同情した。 きっと当人たちは、デートとでも思って出かけていただろうに、恭也の方はまったくそういった意識はしていなかったということだ。 恋人でなくともデートは可能だ。がしかし、昔気質の――そのくせ性的には女慣れしているが――恭也の中で、デートとは恋人同士でするものだ、というものにでもなっている。
「どうした、なのは? 目にゴミでも入ったのか、少し涙が」 「なんでもない、なんでもないのおにーちゃん」
嗚呼、やっぱり恋敵でも泣けてくる。 同時に先制してデートだと主張しといて良かった、とかなのはは黒く考えていたりしたが。
「ということは、なのはが初めてのデートの相手だね、おにーちゃん。私の初めてのデート相手もおにーちゃんだよ」 「ふむ、そうなるな」
妹が初デートの相手。しかも十歳以上離れた女の子。それもどうなのだろう、と普通の人は思うかもしれないが、恭也はそのへんのことに無頓着だし、なのははどんと来い、むしろお帰りは明日でも全然良しという状態なのである。 やはりこの兄妹は普通とは色々と違う。
「で、どうする? 俺は何をすればいいのかわからんのだが」
本来男がエスコートすべきなのだろうがな、と恭也は苦笑する。
「まずは予定通り買い物に行こう」 「そうだな」
買い物と言っても、大した目的があったわけではない。 なのははAV機器と服。恭也もまた夏物の服を見たかっただけである。 なのはの方はファッション的な意味で新しい服を欲しがっているが、恭也の方に至っては夏物と言っても、ほとんどが鍛錬用である。 そんなわけで二人は目的の店を見て回った……わけだが――
「むーっ!!」
色々なところを見て回ったあと、なのはは剥れた様子で頬を膨らませ、恭也の腕に張り付いていた。 そんな様子のなのはに、恭也も苦笑を浮かべてしまう。 どこの店に行こうと、店員などからかけられる声は決まっていた。
『まあ、可愛らしい妹さんですね? 一緒にお出かけですか?』 『妹さんにプレゼントですか?』 『休みの日に一緒に出かけてくれるなんて、優しいお兄さんですね』
等々。 これはデートだと意気込んでいたなのはからすれば、それはある意味テンションを極限にまで下げさせる言葉であることは間違いない。しかし、男女のデートですと反論をしても、相手は『あらあらおませな妹さんですね』と、なぜかやはりにこやかに笑う始末であった。 そんななのはの頭を恭也は、何度か撫でる。
「仕方あるまい。実際俺たちは兄妹なのだから間違ってはいないしな」
兄妹の雰囲気というのは、本人たちが思っている以上に、外へと漏れ出てしまうものである。それは長く一緒に過ごしてきたからこそ滲み出るものなのだろう。 もちろん年の差がありすぎることや、なのは自身が恭也を『おにーちゃん』と呼んでいることも原因であれば、彼女がまだ幼いというのが最大の問題だ。
「まあ、機嫌を直せ。ほら、そこの喫茶店にでも入って何か飲もう」
恭也は丁度足を向けていた先にあった喫茶店を視線で指し示す。
「……翠屋じゃないの?」
まだ不機嫌そうに、だがそれでも兄の言葉にはきちんと答えるなのは。 ここは駅前で商店街から多少離れているとはいえ、少し歩く程度の距離に翠屋はある。いつもならば他の喫茶店に入ることなどない。それが今日はなぜか他の喫茶店に行こうとする恭也をなのはは不思議そうに見上げた。
「お前は身内の前でデートしたいのか?」
僅かな苦笑を浮かべ、恭也はそんなことを言った。 デートと言ってくれる恭也に、なのはは今までの不貞腐れた雰囲気を霧散させ、今度は顔を輝かせる。
「うん。それはイヤかな」 「だろう?」
二人はそんなことを言い合いながら、件の喫茶店に入っていく。 そこは翠屋のような柔らかい洋風喫茶というよりも、照明や置物なども凝っていてどちらかと言うとモダンな印象で、女性も男性も入りやすそうな店だった。 二人でテーブルに座ってメニュー表を見ると、どうやらやはり翠屋とは違う路線で攻めているようで、洋菓子はほとんどおいておらず、そう言ったデザートはどちらかというとパフェやフルーツなどに偏っているようだ。また食事もがっつりとしたものを置いている。
「なるほど」
恭也はそれを見て、思わずそんな声を上げた。 確かにこれならば翠屋とさほど客を取り合うことはないかもしれない。確か翠屋の方が古いはずだから、それなりに意識しての内装やメニューなのだろう。 とはいえ、すでに三時前と時間的には中途半端な時間。昼食は食べてきたし、恭也は食べ物を頼む気にはならない。三時のおやつ、などと甘いものなど尚更に遠慮したい。
「なのははパフェでも食べるか?」 「んーん。量おおそうだし、晩御飯食べれなくなっちゃうよ」
なのははこういうところは、本当に子供とは思えない少女である。これも桃子や恭也の教育の賜物なのだろう。 では当初の予定通り飲み物をと、恭也はブレンドコーヒーに決めた。すると珍しいことになのはもまた同じコーヒーに決める。
「珍しいな」 「うん。いつも紅茶だから、おにーちゃんと同じもの飲みたかったんだ。デートだもん」 「そうか」
デートがそういうものなのか、という疑問も浮かぶが、恭也はとくに突っ込むこともなく頷いた。 飲み物だけということで、とくに待つこともなくホットコーヒーが運ばれ、恭也はソーサーに添えられた砂糖とミルクをどけると、ゆっくりと黒い液体を口に含んだ。 そんな恭也とコーヒーを何度も交互に視線を向けながら、なのはもまた砂糖とミルクをどけてそのままコーヒーを飲み込む。
「うえっ」
だが、すぐに何とも言いがたい表情を浮かべるなのは。
「苦いぃ」 「それはそうだ」
恭也の方は、そんな反応に思わず苦笑してしまった。
「おにーちゃん、これ、美味しいの?」 「まあな」 「おにーちゃんっていつからブラックコーヒー飲んでた?」 「今のお前ぐらいのときには飲んでいたな」 「やっぱりそれが大人なのかなぁ」
そんななのはの言葉に、恭也はさらに苦笑を深めた。 子供のなのはからすると、苦いものが飲める、ということはそれだけで大人に思えるのだ。もっとも恭也は子供の頃、そんなことを思ったことはなかったのだが。
「別に、そんなものは大人の証明にはならないさ。それに今はともかく、俺がお前ぐらいの頃ブラックで飲んでいたのは、それが美味いと思っていたからではなかったよ」
恭也はコーヒーを飲みながらも、そんなことを告げたが、なのはは首を傾げる。
「ブラックコーヒーを最初から美味いと思って飲み始める者などそう多くはない。そういうのは大抵通ぶってるにすぎんさ」 「そうなの?」 「当たり前だ。本当のコーヒーの苦味や酸味、その美味さは何度も飲んでようやく理解できる深いものだ。一杯程度で理解できるような浅いものではない」 「おにーちゃんも?」 「ああ。本当に美味いと思い始めたのは、もっと後のことだ」
そんな自分も通というわけではないが、喫茶店の店長の息子としてそれなりに勉強していると、恭也は薄く笑う。 恭也が子供の頃に飲んでいたのは、そんな理由ではない。
「お前ぐらいの頃には、もう甘いものが苦手だったからなぁ」 「ああ、それで」
と思わず、恭也の答えを聞いて今度はなのはが苦笑を浮かべた。
「でも最初は美味しいと思ってなかったなら、他のを飲めばよかったのに」 「外で飲むとなると、甘くない飲み物というのが、お茶かコーヒーくらいしかなかったんだ。もしくは水の三択だ。いや、お茶は紅茶も含めればそれなりにバリエーションはあるがな」 「なるほど」
深く息を吐き出しながら言う兄に、なのはは苦笑を深める。 別に恭也も本当に最初から美味しいと思っていたわけではなく、妥協の結果だったのだと納得した。
「慣れないうちはまずは香りだけを楽しむ。もしくは一口、二口をそのまま飲んで苦味を、苦味が気にならなくなったら酸味を、と素直に感じてみろ。それから砂糖とミルクを入れるといい。とはいえ重要なのは見た目や先入観ではなく、自分が美味しく飲むのということだ。それに別にブラックがコーヒーの一番良い飲み方というわけではない。そんなもの豆によって変わる」 「うん。にゃはは」 「どうした?」
突然笑ったなのはに、恭也はカップに口を付けながらも、眉を寄せる。
「やっぱりお兄ちゃんって大人何だなって」 「うん?」
今の会話のどこに大人らしさがあったのかと、今度は恭也が首を傾げた。
「ものの見方、って言えばいいのかな。物凄く納得できるなって」
一つのことを多方面から見ることができる。自分のように歪めもしなければ、一方向からしか見れないわけでもない。 それこそが大人の証明なのだろうと、なのはは肩を落とす。
「何でそんなに大人になりたいんだ?」 「だっておにーちゃんのデート相手に見てもらえないんだもん。そんなの本当のデートじゃないよ」
口を膨らませながら、なのはは先ほどどけた砂糖とミルクをコーヒーの中に注ぐ。それでも足りなそうだと、恭也が自分の分も渡すと、断ることなくなのははそれも注いだ。 それから口を付けると、なのはは先ほどのような反応ではなく、ほっと息を吐く。
「人の目など気にするな」 「けど……」 「俺は今もお前とのデートだと思っているぞ?」
恭也はなのはに視線を向けることなく、コーヒーを飲みながら告げた。 なのはがカップから口を離し、目を瞬かせながら慌てて恭也の顔を見る。すると彼の顔はわかり辛いながらも、照れから僅かに赤くなっていた。
「おにーちゃん?」 「デートをしているのは俺たちだ。他の人間に見せるためにしているわけではないだろう。俺たちがデートと思っていたなら、それはそうなんじゃないか」
何度も何度も目を瞬かせるなのは。 次第に恭也の言葉を理解し、恭也以上に顔を赤くさせる。
「……それでは不満か?」 「そんなことない! そんなことないよ!」
慌てて首を振ると『えへへ』と笑い、コーヒーをちびちびと飲む姿は非常に可愛らしい。 そんななのはを見て、恭也もまた僅かに笑う。
「これから行きたい場所、考えておけ」 「まだいいの!?」 「今日は一日付き合うさ……デート、なのだろう?」
さらに顔を赤くさせて言う恭也。 そんな恭也に――
「うん!」
なのはは満面の笑みを浮かべて頷いたのだった。 その笑み一つ見れただけで、どうやら今日なのはと出かけた……もといデートしたのは正解だった、と恭也はコーヒーを飲みながらも笑みを深めた。
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